ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会の開幕(9月20日)まで残り100日を切った。世界中が待ちわびるビッグイベントより一足先に、6月22日からはトップリーグ・カップが全国各地で行われる。

日本代表選手こそいないが、各チームにとっては19~20年シーズンの幕開け。開幕2日前の20日、神戸市内のグラウンドにも、それを待ちわびる男がいた。日本代表9キャップを持つ神戸製鋼フッカーの有田隆平(30)。練習終わりの夕方、直前までの真剣な表情を緩めると「リーチ、頑張っていますよね。30(歳)っていうのは、FWとして一番いい時期だと思います。キャプテンがリーチって、うれしいですよ。頑張ってほしい」と同学年の日本代表フランカー、リーチ・マイケル(30=東芝)に思いをはせた。

元号が昭和から平成へと変わった1988年度生まれは、ラグビー界で有名な「黄金世代」。有田は常にその中心にいた。高校日本代表の肩書を持ち、東福岡高では花園準優勝。決勝で屈した東海大仰星(大阪)の中心選手で現日本代表FB山中亮平(30=神戸製鋼)らと進んだ早大では、主将を務めた。4年時に勝利した早明戦は、相手に現日本代表SO田村優(30=キヤノン)がいた。有田は卒業後にコカ・コーラへと入団し、15年W杯は日本代表のバックアップメンバーに名を連ねていた。

ラグビー選手としての転機は18年春。7年間在籍したコカ・コーラを離れ、故郷の福岡から神戸に移った。腰の故障などで、いつの間にか日本代表は遠い場所になっていた。人生初の移籍を選んだ理由は、少し意外なものだった。

「その時、神戸製鋼には(17年秋のデータ)改ざんの問題があった。それでも会社がラグビー部を応援していることが、すごく伝わってきたんです。それだけ社内の存在価値が高いチームが、必要としてくれました。『何とか強くしたい』という姿勢がすごかった」

プロ選手が増えた昨今のトップリーグ。それでも有田はコカ・コーラ時代と同様に「社員契約」を申し入れ、迷い抜いた末に神戸製鋼への移籍を決断した。「ただ強いから」という理由では「移籍はなかったかもしれないです」と本音を明かす。

移籍1年目の昨季はリーグ全試合に出場。15季ぶりのリーグ制覇、18大会ぶりの日本選手権優勝を決めた決勝のサントリー戦では、前半にキックチャージから貴重なトライを挙げた。日本一の瞬間は、不思議な感情に包まれていたという。

「僕は高校、大学と準優勝でした。大学では下級生で日本一になっていますが、僕の感覚では最上級生で優勝しないと『日本一』ではない。だから、初めての『日本一』なのに『やった~!』ではなく、なぜかホッとしちゃって…。毎日毎日、必死で、ずっとプレッシャーがありました」

チームの勢いと比例し、かつてない重圧を感じていた。SOダン・カーター(37=ニュージーランド)やCTBアダム・アシュリークーパー(35=オーストラリア)など世界的スターを擁した布陣に「システム通りできれば大丈夫」という自信があった。一方でフッカーは最前線で組むスクラム、ボールを投入するラインアウトなど、用意された戦術の起点になる。

「僕が言うのはおこがましいですが、周りは本当に頼もしい。僕が起点のプレーでしっかりと次につなげられれば、うまく進む。だからこそ、そこへのプレッシャーがありました。準決勝、決勝だけじゃなく、シーズン通して。だから、優勝した瞬間も『ふぅ…』ってなったんだと思います」

日本一はオフシーズンに実感した。出勤した職場、優勝報告で向かった製鉄所…。その度に笑顔で「おめでとう」と声をかけてくれる社員に出会った。「本当に恵まれた、幸せなチームだと思います」。移籍に際してはお世話になった人々への、後ろめたさもあった。穏やかな表情で言葉を紡ぐ有田は、ここまでの道中でひとつの答えを見つけた。

「1人でも多くの人に『移籍して良かったね』と言ってもらえるような、プレーをしていきたいです」

同い年の友がW杯に向かって突き進む裏で、有田はトップリーグ・カップ開幕の近鉄戦(22日、和歌山・紀三井寺)だけを見つめる。「もう少し若い時は違ったけれど…」と切り出した30歳は力強く言い切った。

「日本代表に呼ばれることがあれば、それはむちゃくちゃ頑張ると思います。でも、今いるのは神戸製鋼。だから代表のことを考えるのではなく、神戸製鋼に必要なフッカーになりたい。神戸製鋼に必要なスキルを身につけたい。今年も出続けて、カップ戦も、リーグ戦も、優勝したいです」

「黄金世代」の一員は、今季も黙々と赤のジャージーで体を張る。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当し、平昌五輪ではフィギュアスケートとショートトラックを中心に取材。