2019年11月2日。ラグビー界に新たな歴史が刻まれる「特別な日」になるかもしれない。ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会決勝でイングランド代表(世界ランキング1位)と対戦する南アフリカ代表(同2位)のフランカー、シヤ・コリシ(28)が、同国初の黒人主将として大仕事に臨む。3度目の優勝を果たして、再び、母国が1つにまとまるきっかけを作ろうとしている。

ウェールズとの準決勝。マスコットキッズの手を握ったコリシ主将は、目を閉じ、口を大きく開けて国歌を歌った。国歌は黒人運動で盛んに歌われた「神よ、アフリカに祝福を」(コサ語、ズールー語、ソト語)と旧国歌「南アフリカの叫び声」(アフリカーンス語、英語)を1つに編曲したもので、5つの言語が使われている。過去の民族和解の象徴でもあり、国民約5700万人のさまざまな思いが込められている。94年のアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃から25年が経過した今も、「緩和」は大きな課題とされ、コリシ主将は「僕らが試合する時は、グラウンドで戦う以上の意味を持っている。(愛称)『スプリングボクス』としての役割は大きい」と強調する。

同国では「ラグビーが宗教」といわれるほど人気がある。しかし、ラグビーはかつて「裕福な白人スポーツ」とされた。アパルトヘイトもあり、黒人が代表に選ばれることは長らくなかった。国際社会から制裁を受け、W杯は第1回の87年大会から2大会続けて除外された。歴史が変わったのが、自国開催した95年大会での初優勝。同国初の黒人大統領となった故ネルソン・マンデラ氏が優勝トロフィー「ウェブ・エリス・カップ」をチームに渡した場面は、人種融和の象徴となった。

だが、国内の生活水準や環境面の違いなどから人口の約8割を占める黒人が代表になるのは簡単ではない。15年大会の1次リーグで格下の日本に金星を許すと、国内では「選ばれるべき黒人選手がいなかったから負けた」などと不満が噴出した。政府の意向に従い、ラグビー協会は今大会の非白人選手の割合を5割まで上げる目標を掲げた。最終的には、過去最多の全31人中11人が代表入りした。

コリシ主将も、その1人だ。91年6月、南部のポートエリザベス郊外にある旧黒人居住区で生まれた。貧しい家庭で祖母に育てられ、一切れのパンと牛乳を飲むのが楽しみで小学校へ通った。父の影響で8歳から競技を始めた。12歳でラグビーの名門校に奨学金付きでスカウトされ、旧居住区外の学校へ移った。食事は1日6食。寝る場所も床からベッドへ変わった。プロ選手を夢見て、必死に英語も学んだ。20歳で念願のスーパーラグビー、ストーマーズに入団した。その後は、故郷へ恩返しのために衣服やお金を送る支援を続けている。まさに、映画のようなサクセスストーリーを実現したのだ。

来日中のW杯通算最多15トライを誇る元同国代表WTBのブライアン・ハバナ氏(36)も「彼は大変な人生を送ってきた。小さい頃からラグビーも食べ物も恵まれなかったが、それが今の強さにつながっている。決勝までの貢献度は大きく、初の黒人主将としてカップを掲げるのを期待している」と切望した。

決勝には、シリル・ラマポーザ大統領も観戦に訪れる。準決勝前日にはチームに激励電話をかけて、士気を鼓舞した。きっと、大一番前には、選手たちへ直接言葉をかけて背中を押すのだろう。相手は07年大会決勝で破ったラグビー発祥国のイングランド。コリシ主将は当時をこう思い返す。

「国民があれだけスポーツで1つなるのを見たことがなかった。W杯の優勝が国に何をもたらしたかは覚えている。スポーツは人々を結びつける力がある」

多言語多人種の「虹の国」を率いる28歳の闘将は11月2日、さまざまな思いを背負って横浜の地に立つ。優勝すれば、母国だけでなく、世界中の多くの人々へ希望を与えるだろう。それは、3度目の優勝という結果以上の強烈なメッセージになるはずだ。重責を担う1人の男が、「スプリングボクス」の伝統と誇りを胸に、まもなく運命の1日を迎えようとしている。【峯岸佑樹】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

27日ウェールズ戦、主審とコミュニケーションを取る主将コリシ(右)(撮影・狩俣裕三)
27日ウェールズ戦、主審とコミュニケーションを取る主将コリシ(右)(撮影・狩俣裕三)