「雨が降ればいいのに」
日本の真裏のブラジルの地で、首にメダルをかけられなかった22歳の柔道家の本心を聞いたことがあった。
リオデジャネイロの興奮は、まだ東京五輪への逆風のだいぶ前。地球の反対側からの熱量は、史上初のオリンピック、パラリンピックのメダリストによるパレードとなり、銀座の街を赤いバス(ロンドンの2階建てバスと同じ!)に各競技の金銀銅を乗せて、沿道に80万人を集めた。
田代未来は、そのバスに乗る資格がなく、その日の朝、晴れわたる秋の空の現実は脇に置いて、雨を願っていた。
初めてのオリンピックは公にはしなかった故障を抱えながら、準決勝、3位決定戦と敗れて5位。男女14階級で表彰台を逃したのは女子2階級。そのうちの1つ63キロ級が田代の主戦だった。
帰国の空港の動線からメダリスト/メダリスト外に分けられたその後は、パレードも同じ。祭りの後は「メダリスト」の晴れ舞台だった。
失意のわずかな恨み節を、殊更大きく書く必要はないと思ってきた。取材というより、その後に会った時に、本人も少し自嘲を含ませながら教えてくれた「雨乞い」だった。それも心の中で、だ。
ただ、私にとってはその言葉に五輪の残酷も感じ取り、ずっと閉まっておくことになった。いつか書くときが来るはず。ただ、卑屈の範囲にからめ捕られるような記事にはしたくなかった。
東京五輪では担当を離れた。27歳の田代は2度目の舞台に挑み、2回戦で一本負けした。発祥国、日本武道館、女子7階級で唯一のメダルなし。担当していた体操の会場に置かれたテレビでその姿を見ていた私には、リオよりも過酷な現実におののくことしかできかった。
「この日まで必死にやってきましたが、これが現実。ただただ、弱かったんだなと思っています」
記事を通じたコメントを読みながら、もう、雨乞いをする感情すら許さないほどのスポーツの無情がそこにあった。
「なんだか頑張ることに意味を感じなくなってしまい、一時は全て投げやりになっていました。今はそんな感情で時間を過ごすのはもったいないと感じるようになり、ゴールは決めずに好きな柔道と向き合いたいと思っています!」
連絡をもらったのは、3カ月後の21年の暮れだった。
辞めるのではなく、続けていく。その3カ月後、左膝の前十字靱帯(じんたい)を断裂した。ただ、ゴールはまだ先に。
22年秋には、「田代」は「高市」になった。元世界選手権代表だった高市賢悟と結婚し、背中に「TAKAICHI」を背負って畳の上に上がっていた。再び代表戦線に踏み込み始めた。
1年後の23年秋、堀川恵との一騎打ちに絞られた代表争いを、東京体育館でのグランドスラム東京で制した。3度目の五輪。
「三度目の正直」。決まり文句でくくってしまう数字は、ただ、優勝を飾った後の高市のひと言で意味が薄れた。
「もう、自分を否定するのはやめたんです。今はいつもいつも、褒めるようにしてます」
いつもを2度言った。
今、年齢を重ね、故障も癒えてはいない。あの頃の感覚には届かない。
「でも、もうできていた時も考えないようになりました。『できない、できない』。ずっとそう思って柔道をしてきたんですが、いまはできることを考えてます」
リオ、東京、田代は足りないものを求め続けた。
パリへ、高市は足りているものを信じた。
同じ「代表」の肩書でも、もうこの時点で大きな差があるのだ。
2度目と3度目の断絶、否定から肯定へ。
書けば簡単だが、幾度の絶望を直視し、幾度の奮起の先にあった反転なのだろう。それは簡単に結び付く自己承認欲求にはなびかない純粋さがある。だから、過不足ない褒め方を心得てる。
パリの舞台で「正直」がどうなるかは分からない、ただ、彼女はすでに今、「強さ」を手に入れていると感じた。
私には時折、思い出す高校時代に読んだ漫画の場面がある。
不良学校に通う最高で最強の主人公をその仲間がうらやむ姿に、下宿先の家主が言い放つ。
「誰かをうらやむな! うらやむって事は自分を否定することなんだ!」
苦境の時こそ、誰かを見上げてしまうものだろう。
ただ、高市はその時こそ、認めた。
7年前、雨を願った柔道家の心は今、晴れわたっている。【阿部健吾】



