3度目のオリンピック(五輪)に向け、高梨沙羅は、ワールドカップ(W杯)のため海外に遠征中だ。W杯で男女を通じ歴代最多勝利を誇る女王には、まだ手にしていない、どうしても欲しいものがある。

「五輪(の舞台)に立っている人全てが、金メダルを目指している。私も負けずに金メダルを目指していきたい」

こうはっきりと言葉にし、自らを奮い立たせている。

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2018年2月12日。舞台は韓国・平昌五輪。高梨が笑って、泣いて、お姫様抱っこされた日だ。

寒さで吐く息は白い。小雪が舞う。ゴーグルの下の目は鋭く、真っすぐ前を見つめていた。勝負の時がやってきた。1回目103・5メートルで3位で折り返していた。2回目、30人中28人目のスタート。メダルを手にできるか、できないか。低い助走姿勢から飛び出した。トップに立てば、その時点でメダルが確定する。目安となる緑色のラインに向かい、着地が近づく。越えた。両手を空に突き上げた。

目に飛び込んだチームメートの姿に、自然と表情が緩んだ。待ち構えていた伊藤有希の姿を見ると笑顔になった。両手を広げ、まるで自分のことのようにはしゃいで胸に飛び込んできた伊藤を抱き締め、そして、強く抱き締められた。

喜びを分かち合う。自身初のメダルが決まった瞬間だった。

「最後の最後に、渾身(こんしん)の、ここにきて一番いいジャンプが飛べた。何より、日本のチームのみんなが、下で待っててくれたのがすごくうれしくて…」。こう話したところで、声を詰まらせた。

2回目一時トップに立つも守れず、銅メダル。目指していた金メダルではなかった。それでも輝いていた。

「結果的には金メダルを取ることはできなかったけど、すごく自分の中でも記憶に残る…競技人生につながる、糧になる貴重な経験をさせていただいた」

必死に言葉をつなげた。悔しさもあるが、満足感もあった。悪夢の日から丸4年。1461日がたっていた。

【大本命で臨んだソチの傷/後編】(残り827文字)

優勝候補、金メダルの大本命として臨んだ2014年のソチ五輪。初めて採用された女子ジャンプで、初代女王になるはずだった。

だが、結果は4位。表彰台に立つことすら、できなかった。

初めての五輪では、まだ17歳だった。あどけなさの残る少女には、重圧がのしかかっていた。そこからが、闘いだった。

勝負弱いなんて思わせたくない-。

強くならないといけない-。

4年たって、平昌の地で、ソチの呪縛を自ら解き放った。

長い道のりを思い返して「悔しい思いをバネにここまできたつもり」。そう振り返った。

平昌では、試合後に、山田いずみコーチにお姫様抱っこされた。あたたかい腕の中で、あふれる涙を止められなかった。

W杯蔵王大会で初優勝を飾った2012年3月3日、W杯最年少覇者(当時、15歳4カ月)になった時も抱きかかえられた。恒例のご褒美だった。

ともに歩んだ4年間は、苦しかった。18年はW杯で開幕から個人戦で1勝もできないまま立ったリベンジの舞台だった。そこで、最大限の力を発揮した。それは2人にとっては、メダルの色はどうあれ、“勝利”だった。

リベンジを果たしたと同時に感じたことがある。

「自分は金メダルを取る器ではないということがわかった」

ストレートな言葉には無念さがあるが、前向きだった。「やはり、まだまだ競技者として、もっと勉強しないといけない部分もたくさんある」。それは、さらなる4年後へ、新たな挑戦がスタートした瞬間だったから。

すぐ、ジャンプを1から作り直す決断をした。女子のレベルは上がっている。全力を出しても、簡単には優勝できないという現実もはっきりした。「金メダルを取る器」でないなら、そうなるための努力をすればいい。助走、飛び出し、空中姿勢を変える作業に着手した。

平昌後からは、ソチを思い出す悪い夢は見なくなった。「よくジャンプしている夢を見る。楽しく飛んでいる」という。

ジャンプのことばかり常に考えている。夢の中のように、楽しいジャンプを、北京で描き、実現させるときだ。【保坂果那】