【ミラノ=木下淳】冬季五輪の華、フィギュアスケートの男子は歴史的大波乱で幕を閉じた。2シーズン前の23年12月から個人戦14連勝、約2年2カ月間、無敗を誇った世界王者イリア・マリニン(21=米国)が撃沈。世界最高得点を持つフリーで、まさか過ぎる15位に沈んだ。
ショートプログラム(SP)首位から、歴史的大失速の156・33点。自己ベストの238・24に81・91点も届かなかった。合計も264・49点で総合8位。同じく自己記録333・81点から69・32点も下回った。
別人だった。冒頭の4回転フリップこそ成功させたが、世界で唯一自身だけが跳べるクワッドアクセル(4回転半)が、抜けて1回転半に。単発では世界一の得点源となるジャンプが1・04点にとどまった。
続く4回転ルッツは成功したが、再び次が抜ける。4回転ループが2回転になると、場内がざわめいた。基礎点が1・1倍になる演技後半も4回転ルッツと、抜けて2回転になったサルコーの2つで転倒し、どよめき、悲鳴に変わっていった。
「やってしまった。本当に予想外だ…。いったい何が起きたのか。正直、今は原因が分からない。とても整理できない。スタート位置に立った瞬間、今までのトラウマなどネガティブな感情が全て、一気に押し寄せてきて、対処し切れなかった。緊張に圧倒されてしまった」
金メダルは伏兵の同じ21歳、ミハイル・シャイドロフ(カザフスタン)にさらわれた。失意の演技後、マリニンは真っ先に駆け寄って祝福。「おめでとう、と言いに行ったんだ。誇りに思う。普段、僕たちは競い合う姿を見られて、仲の悪いライバル関係だと思われがちだけど、実際は逆。喜びや励まし合う関係なんだ」。この時だけは口調もなめらか。現実と受け止められたのは、この場面だけだったのだろう。
誰もが、ど真ん中に立って座るものだと思っていた表彰台にも、メダリスト会見にも、米国のスターで絶対王者の姿はなかった。イタリア国内のアイスショーにも出演し、断トツの一番人気でもあった中、悲嘆に暮れる。悲鳴が胸に突き刺さり、胃をえぐられる。悪夢の始まりは、当地7日の夜だった。
団体SPを終えた深夜。米国連盟の関係者から電話が鳴った。「君が出なければ、負ける」。中2日の10日から始まる個人男子に向け、当初は調整に専念する計画だった。SPでお役御免、慣らし運転、のはずだった。だから「まだ状態は50%」の本音も出た。
今季途中、一時は袂を分かっていたラファエル・アルトゥニアン・コーチも、開幕後に復帰。団体フリーには間に合った。起用に猛反発したが、米USAトゥデー紙によると、その電話は、相手や内容も含めて「とても断れなかった」ものだったという。
日本が、ペア「りくりゅう」こと三浦璃来、木原龍一組と、女子の坂本花織というダブル世界王者で猛追してくることは明らか。仲間の劣勢が確実の状況に、マリニンは「分かりました」と受け入れざるを得なかった。
フリー当日。全6種7本を予定していた4回転ジャンプを5本に減らし、ミスも出たが、日本の佐藤駿を僅差で振り切って、金メダルに貢献した。
「自分が下してきた判断の中で、最も賢明なもの」
そう胸を張ったが、確実に、心身はむしばまれた。
個人のSPこそ、直前の公式練習を回避するなど独自の調整が奏功して首位発信。同じ米国で、前回22年の北京五輪覇者ネーサン・チェンも、解説者として入っている当地で「もうメダルを渡されたようなものだ」と信じ切っていた。
この時点で、まず4日間で3試合の超過密日程。フリーまでは中2日あったものの、わずか1週間で4試合は過酷だった。
2カ月前のグランプリ(GP)ファイナルでそうだったように、マリニンは、SPで鍵山優真(オリエンタルバイオ/中京大)に15点差をつけられても、フリーで反対に30点弱の差をつけて倍返しできる、異次元のベースを持っていた。
今回、SPから5・09点のリードを奪い、フリーは構成を落としても完勝できたはずだが「クワッド・ゴッド(4回転の神)」を自任するだけに、プライドを貫いた。五輪の舞台で、後にも先にもない全6種を成功させる-。彼もまた夢を追い、壮絶に散った。
もちろん、団体で連投しなかった鍵山にもミスが出た。反対に連投したスティーブン・ゴゴレフ(カナダ)でも、フリー2位と躍進した。ただ、団体もフリーも、マリニンだけが金メダルを宿命づけられた。その期待は、初出場の21歳には酷すぎた。
「この年齢で優勝候補の重圧は苦しかったし、自信過剰でもあったのかもしれない」
得点を待つキス・アンド・クライではマイクのスイッチがONになっており「北京に出ていれば…」とこぼした。
その4年前を悔やみ、頭を抱える関係者はいるだろう。北京五輪の代表最終選考会となった22年1月の全米選手権。シニアデビューした17歳のマリニンは、チェンに次ぐ2位に食い込んだ。ところが、過去実績から代表3枠目には、全米4位のジェーソン・ブラウンが選ばれていた。
北京五輪で金メダルを獲得したチェンも、初めての五輪は散々だった。18年の平昌大会、地獄を見た。初出場のSPで、まさかの17位。フリーは1位で希望の締めくくりとし、リベンジを期した4年後にSP、フリーとも1位の完全優勝を果たしたことで、経験の大切さを際立たせた。
そのチェンの伝説的フリーを超える、世界最高記録を更新したマリニンでも、同じ道を歩んで、失敗を経験しないと、頂点にはたどり着けないのか。
オリンピアンのロマン・スコルニアコフとタチアナ・マリニナを両親に持っても、あくまで経験を聞くことしかできない。自身の体験が、たとえ惨劇であれ必要だったのかどうか、証明は4年後になってしまう。もちろん、負傷などなく、最強も維持して、出場できた場合に。
絶対王者は、周囲から、そして自分自身の期待に押しつぶされた。
「五輪は、他の大会とは全く違う雰囲気だった。これからどうするか、考えなければいけないけれど…」
教訓を糧にするしかないが、今はまだ、聖地の悲鳴が脳裏に響き続けている。
◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。飯田高-早大。4年時にアメフトの甲子園ボウル出場。04年入社。文化社会部時代の08年ベネチア映画祭でイタリア初出張。ミラノは2度目。東北総局、整理部、スポーツ部。23年からデスク。25年からDCI推進室と兼務。高校野球の甲子園取材は春2回夏3回。サッカーW杯は1回。五輪は夏3回冬2回。五輪パスはE、Es、ET、Ecの4種を保有している。

