フェンシングの東京オリンピック(五輪)日本代表候補が25日、発表され、男子フルーレの12年ロンドン五輪団体銀メダリストで、2大会ぶりの出場を目指していた三宅諒(30=コモンズ2)がメンバー入りを逃した。
発表後、ツイッターで「たくさんの人に応援してもらえて、その方達と一緒に走り抜けたこのシーズンは僕にとって、かけがえの無い宝物です」「まだまだみんなに応援してもらいたいし、それに応えられる選手であり続けたい」に心境をつづり、特にこの1年で携わった人たちに感謝した。
新型コロナウイルス感染拡大下の、ちょうど1年前の昨年4月、食事配達サービス「UberEats(ウーバーイーツ)」のアルバイトを始めて話題になった。一躍、コロナ禍のアスリートを代表する「時の人」となった選手だ。
本業のピスト(競技コート)上では日本勢「5、6番手の評価」(三宅)からの逆転出場を狙っていた。「開催国枠」での団体戦メンバー入りへ。私生活では昨夏、同い年の万里衣さん(30)と結婚し、ここでも時流に乗った「Zoom婚」で話題になった。婚姻届を提出したのは20年の8月1日で、今年の同日は東京五輪の男子フルーレ団体戦が実施される日。「一緒に目指そう」と新婚生活を挙げて夢を追ってきた。
フェンシング会場の幕張メッセも地元の千葉。県や市川市にマスクを寄贈するなど故郷を愛し「選手村から向かうバスは、実家の近くを通るはず。まさにホーム」と錦を飾る気だった。
沈む世相にあって、モチベーションが高まる理由が多々あった中、三宅は肝心の成績を伸ばすことができなかった。コロナの影響で国内外の大会が軒並み中止となり、出場できたのは2試合だけ。そこで勝てなかった。昨年9月の全日本選手権では16歳の飯村一輝を相手に初戦敗退。「直接の選考に関係ないとはいえ、印象的にはマイナス」と後がなくなった。今年3月、再開された選考レース最終戦のグランプリ(GP)ドーハ大会でも日本勢10番手の70位。代表コーチ陣にアピールできなかった。
それでも、ナショナルチームの最年長として「生き字引にならないと。太田(雄貴)先輩が(08年北京五輪で銀)メダルを取る、その前の時代から僕は代表を見てきた。その経験を後輩に受け継いで、チームをまとめないといけない立場だと思っている。そのためには僕が最も強いことが理想」と覚悟し、昨年11月の本紙インタビューでは「常に勝ちを意識する」と色紙に書き込んでいた。
ロンドン五輪では太田らと銀メダル。2度目の夢舞台には届かなかったが「From Pedal To Medal」を合言葉に、自転車の「二輪」から自国開催の「五輪」へ走った。フェンシング界の知名度向上にも貢献した取り組みは色あせない。自国でメダルの目標は、20代前半の有望剣士がそろった敷根、西藤、松山、永野の後輩に託した。【木下淳】
◆三宅諒(みやけ・りょう)1990年(平2)12月24日、千葉県市川市生まれ。5歳から競技を始め、慶応高2年時の07年世界ジュニア・カデ選手権で金メダル。当時、各年代を通じて日本人初の世界王者になった。慶大4年時、チーム最年少でロンドン五輪に出場。太田、千田、淡路との団体戦で日本最高の銀メダルに輝く。14年の仁川アジア大会では金。左利き。178センチ、72キロ。血液型O。


