本来なら、東京五輪が始まっているはずだった。晴れ舞台に立っていたはずのアスリートは今、何を思うのか-。連載「幻の20年夏」は、そんな選手たちの心に迫る。第1回は、五輪重量挙げ女子48キロ級で12年ロンドン銀、16年リオデジャネイロ銅メダリストの三宅宏実(34=いちご)。

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2020年7月25日、東京国際フォーラムで現役最後の試合を終えているはずだった。腰痛と闘いながら競技を続ける34歳の三宅にとって、1年の延期は重い。3月24日、五輪延期の決定を聞くと、張り詰めていた気持ちが「ぷつんと切れた」。それでも監督の父義行さん(74)に背中を押され、その日もバーベルを持った。「(つらさを)忘れられる瞬間があった。その時、私はウエートリフティング好きだなって思った。2年だったらあきらめていたんですけど、1年だったら…」。変わらず5度目の五輪を目指すと決めた。

「東京」の響きが三宅をとどまらせる。16年リオデジャネイロ五輪は、腰痛を乗り越え銅メダルを獲得。ジャークの最後の試技を終えた後、バーベルを抱きしめた。五輪の舞台に立つのも、試合に出るのも最後かもしれないと思ったからだ。その後、休養を経て東京五輪を目指すと表明した。「東京じゃなかったら目指してなかった。東京五輪という夢の舞台があるからこそ、チャレンジしたいと思った。引かれた。直感で決めた」。64年東京五輪で伯父の義信さん(80)は重量挙げ男子フェザー級で日本人金メダル第1号を取った。三宅は「出るからには金メダルを取りたい」と伯父に並ぶ目標を掲げる。

頂点への道は遠い。リオ五輪後の4年間で出場したのは8大会。うち19年の全日本選手権と世界選手権は脚を痛め、棄権した。最も記録が良かったのは19年アジア大会49キロ級のトータル187キロ。昨年の世界選手権女子49キロ級で蒋恵花(22=中国)が出したトータル212キロの世界記録とは25キロもの差がある。三宅は言う。金メダルという目標は「言霊」なのだと。「むしろそれぐらいの気持ちじゃないと、五輪にも届かない。言葉負けしちゃうかもしれない。大きいことを言ってると思われるかもしれない。でも、言霊というのがある。自分を奮い立たせたい」。残りの競技生活で「弱いまんまで終わっていくのはしこりが残るというか、悔しい」。最後までもがくつもりだ。

五輪中止の可能性もある。「決まった時に考えるが、試合をしないまま終わるのはいやです」。どうなっても、現役最後の試合を定める。「最後は初心に戻って、キラキラした感覚でやれたらいいな…」。昔は10分ほど体を動かせば、すぐにバーベルを挙げられた。ヘルニアを発症した16年からは、シャフトを持つまでの準備運動に1時間半もの時間をかける。「この小さな積み重ねが大事」。壊れそうな体と向き合いながら、1年後の舞台を夢見ている。【高場泉穂】

◆三宅宏実(みやけ・ひろみ)1985年(昭60)11月18日、埼玉・新座市生まれ。音大出身の母育代さんからピアノの英才教育を受けるが、00年シドニー五輪で初採用された女子重量挙げを見たのをきっかけに、新座二中3年から競技を始める。五輪は04年アテネ9位、08年北京6位、12年ロンドン銀、16年リオデジャネイロ銅。家族は両親、兄2人。伯父義信氏は64年東京、68年メキシコ五輪金メダル、父義行氏はメキシコ五輪銅メダル。146センチ。