10年前、東日本大震災の被災地に身を置き今、トップアスリートして東京オリンピック(五輪)に備える、あの日の被災者たちがいる。卓球の若きエース、張本智和(17=木下グループ)は当時、仙台市内の小学校に通う1年生だった。今夏もし五輪が開かれるなら「亡くなられた方々のことを胸に刻んで戦いたい」と強い覚悟を示した。【三須一紀】

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自宅の机で学校の宿題に向かっていたその時、地震が来た。張本は当初「大丈夫だろう」と机の下にもぐっていたが、次第に激震に変わる。震度6強。両親が「トイレに逃げよう」と、当時2歳の妹美和と4人で狭い空間に身を寄せた。

揺れが収まりトイレを出ると家財道具が倒れ、割れていた。小1には「本当に恐ろしかった」。大急ぎで近くの公園に避難。その手には、宿題の途中だった鉛筆が握られたままだった。当日から数日間は車中泊。水道が出ず停電が続く中、近所の人が飲料水やパンをくれた。小学校の体育館で食糧の配給も受けた。

張本が通っていた東宮城野小に、津波で校舎が壊滅した荒浜小(現在は震災遺構)が間借りし、授業をすることになった。互いの校舎はわずか6キロ余りの距離だが、荒浜地区は津波が全てをのみ込んだ。震災当日の夜、「荒浜で200~300人の遺体」とニュース速報され、日本全国を震え上がらせた場所だ。大津波はすぐそこまで来ていた。人ごとではなかったのだ。

張本は荒浜小の児童と仲良くなった。「よく遊びました。校外学習や修学旅行も一緒に行ったのをよく覚えています」。ただ津波被害の話は聞けなかった。家を失って仮設住宅から通っている児童もいたという。「津波でつらい思いをしているのは知っていた。だからこそ明るい話、遊びの話ばかりをしていた」。

震災から1、2年後、両親から「つらい思いをし続けている人たちがいる。震災を忘れてはいけないよ」と言われた。高2になった今も、その気持ちは同じ。3月11日が近づけば毎年、自ら被災地に寄り添う発信をする。あれから10年。日本は今、新型コロナウイルスという疫病災害に苦しんでいる。その中で控える東京五輪に対し、震災を経験した張本ならではの考えを持っている。

「震災後、何をするにしても真剣に取り組んできた。今日が(人生)最後かもしれないと、たまに考えたりもする。何よりも1番は人の命。選手として開催してほしいけど、開催することで明らかに状況が悪くなるのであれば、開催できなくても仕方がない」

そう冷静に状況を捉える中でも、開催されれば被災地のために全力で戦う準備を進めている。

「復興五輪でかつコロナ禍でもあり、今回は特別な五輪。開催されれば金メダルという結果にこだわりたい。被災された方、亡くなられた方々のことを胸に刻んで戦いたい」

18歳34日で男子シングルス決勝(7月30日)を迎える張本が金メダルを獲得すれば、五輪卓球での最年少記録を塗り替える。「楽天にマー君が帰ってきたことは本当にうれしい。自分がマー君ほどの喜びを東北に与えられるか分からないけど、五輪でメダルを取って被災地の皆さんに恩返しができれば」。弱冠17歳はアスリートにできる復興活動を、模索し続けている。

◆張本智和(はりもと・ともかず)2003年(平15)6月27日、仙台市生まれ。家族は元選手でコーチの父宇さんと、95年世界選手権中国代表の母凌さん、卓球女子の若手のホープ妹美和(12)。両親が98年に中国・四川省から仙台へ移住。14年春に国籍変更。18年1月の全日本では男女を通じ史上最年少の14歳208日で初優勝。同12月、ワールドツアーグランドファイナルでも最年少優勝。東京五輪シングルス、団体戦の代表。175センチ。血液型O。