【注目新人の初キャンプ〈2〉】松井秀喜がゴジラ以外の愛称募集?名言「ハナクソ」も

プロ野球のキャンプが真っ盛りだ。巨人ではOBの松井秀喜さん(49)が臨時コーチを務めて話題になった。さて、入団時から注目された松井さんは、ルーキー時にどんなキャンプを送っていたのだろうか? サッカーのプロ、Jリーグが誕生した1993年(平5)、野球界全体の活性化が急務だった当時を、日刊スポーツ紙面から振り返ってみる。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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Jリーグ発足年に入団

松井がプロ選手としてスタートを切った1993年(平5)がどんな年だったか。前年の入団会見を見れば、その状況がよく分かる。

1992年12月26日付の紙面を見てみよう。

1992年12月25日、入団会見する松井(左)。中央は正力オーナー、右は長嶋監督

1992年12月25日、入団会見する松井(左)。中央は正力オーナー、右は長嶋監督

やはり「ただ者」ではない。だれもが緊張するはずの入団発表。詰めかけた報道陣46社153人。さらにあこがれの長島監督(注=当時は「島」表記だった)を前にして、怪物松井は平然と言ってのけた。「最近はサッカーや相撲に小さい子供たちが動いていますが、自分はそんな子供たちに夢を与えられるような選手になりたい」

18歳の高校生がこのセリフ。Jリーグ誕生で盛り上がるサッカー界や若貴人気の各界を向こうに回し、ルーキー松井は野球人気復活のために「救世主役」を買って出た。

「プロ野球選手になりたい」。少年時代からの夢が現実になった今、松井は自分の置かれている立場を実感しているのかもしれない。今年、野球人気にかげりが見えてきたが、長島監督が12年ぶりに復帰。その長島監督が自らの手で松井を引き当てた。野球界の将来を心配する気持ちは、松井にしても同じ。周囲から寄せられる痛いほどの期待に、自らのバットでこたえようというのだ。

野球選手の枠を超えた存在感を示した「松井伝説」は、この会見から始まったと言っていい。

自主トレ初日の練習を終え、取材を受ける巨人の松井秀喜

自主トレ初日の練習を終え、取材を受ける巨人の松井秀喜

さて、2月の宮崎キャンプは大きな騒ぎになった。長嶋茂雄監督の現場復帰だけでも注目されるが、そこにきて長男一茂が加入。さらに大物ルーキーの松井が加わった。

長嶋監督は、松井の育成について「責任を感じる」と話し、宮崎キャンプで松井の教育係をつけた。選手会長の篠塚和典選手だった。

キャンプ前日の様子を伝える1993年2月1日付の記事を紹介する。

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編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。