【私と長嶋さん〈12〉】「シゲの1番のファンは俺」もう1人の4番サードNの物語/上

1957年(昭32)11月。巨人入団を決めた長嶋茂雄さんには同期のライバルがいました。関大の4番・難波昭二郎。長嶋さんと同じ三塁手で、関西6大学新記録(当時)の通算7本塁打をひっさげ、一足先に巨人入りを決めていました。「もう1人の4番サードN」だった難波さんは、現役引退後に音楽業界で成功し、09年に亡くなるまで長嶋さんと親しくしていました。「ライバルにして一番のファン」の物語を、難波さんの長男貴司さん(60)に聞きました。全3回です。

プロ野球

◆難波昭二郎(なんば・しょうじろう)1935年(昭10)2月19日生まれ、大阪府出身。高槻高から関大に進み、関西6大学記録(当時)の通算7本塁打をマーク。「東の長嶋」「西の難波」と並び評された。58年巨人に入団。62年に西鉄に移籍し、その年限りで引退した。実働5年間で179試合に出場、打率2割1分2厘、7本塁打。173センチ、75キロ。右投げ右打ち。09年8月14日、心不全のため亡くなった。

「ライバルにして一番のファン」ご長男に話を聞いた

待ち合わせ時間の10分前、難波貴司さんは東京ドームホテルの喫茶店に現れた。

「遅れてすみません」

遅れてはいないのだが、物腰柔らかく、頭を下げる。貴司さんは社会人野球のエイジェック(栃木・小山市)の元監督。今夏の都市対抗に6選手を補強で供出し、彼らの活躍を見届けるために上京していた。

難波昭二郎さんの長男で社会人エイジェック監督の難波貴司さん

難波昭二郎さんの長男で社会人エイジェック監督の難波貴司さん

ピンクのシャツを着こなし、笑みを絶やさず、口調は穏やか。お父上もきっとこうだったのだろうと、勝手に想像した。

「父は長嶋さんのことを『あんなやつはいない。シゲの一番のファンは俺』と言っていました」

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1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。