【本郷理華〈中〉】9歳で名古屋へ 東日本大震災で生まれた「やらなきゃ」という気持ち

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第34弾は、プロスケーターとして新境地を開き続ける本郷理華の来歴をたどります。9月に再演が控える「ワンピース・オン・アイス」でのMr.2・ボン・クレー役が大評判を呼ぶ27歳。3回連載の第2回では、生まれ故郷の仙台を離れて名古屋へスケート留学を決めてから、平昌五輪の星として注目を集めていくまで。東日本大震災が変えた競技に取り組む気持ちが、国際舞台へとつながっていきます。(敬称略)

フィギュア

荒川静香との深い縁

「ドーナツ型のあのメダルがほしい!」

2006年の春からしばらく、9歳の本郷の口癖だった。

「試合によってメダルの形って違うって知らなくって。オリンピックのメダルは全部ドーナツ型だと思っていたんですよね」

鮮烈だった。

トリノ五輪後、帰国して記者会見した荒川静香。メダルはドーナツ型だった(2006年2月28日撮影)

トリノ五輪後、帰国して記者会見した荒川静香。メダルはドーナツ型だった(2006年2月28日撮影)

まさに目の前で、その黄金の輝きにくぎ付けになっていた。

3月27日、トリノオリンピックで日本勢初の金メダリストとなった荒川静香が、地元の仙台市で行ったパレード。そのオープンカーの助手席に本郷はいた。

「期待値で乗せてもらったかどうかはわからないんですけど…」

荒川との縁は深かった。

祖母則子が営む美容室のお客さんだった時期もあり、何よりコーチの長久保裕の元で姿を見かけていた。

「私の赤ちゃんの頃も含めて、すごく長い間、知ってくださっているんですけど、私にとってはあこがれの人すぎて。簡単にしゃべりかけられなかった」

練習の最後にリクエストに応えるように披露してくれたスパイラルの美しさに、ただただ感嘆の声を上げる。

トリノ五輪で、ビールマンスパイラルを披露した荒川静香 (2006年2月21日撮影)

トリノ五輪で、ビールマンスパイラルを披露した荒川静香 (2006年2月21日撮影)

トリノの祭典は母裕子の友人らと飲食店に集まって、皆で応援した。

荒川が会心の「トゥーランドット」を演じ抜いたこと、その後のスルツカヤの転倒で店内の雰囲気が金メダルを意識した緊張感に包まれたこと、快挙が決まった後の大人たちの歓喜と涙。画面に映る荒川の落ち着いた様子、対照的な「応援会」の熱狂の中で思った。

「かっこいい…」

スケートを続けた先に初めて、ぼんやりとした目標ができた瞬間だった。

「オリンピックがどんなものかよく分からなかったけど、すごいことだとは分かったんだと思うんです。『私も出られるようになりたいな』と、初めて思ったのはそこです」

期せずして、その憧憬(しょうけい)から1カ月後、7万人以上を集めたパレードで大役を担うことになった。

「沿道にすごい人だったんですけど、でも私、ほぼ見えてなくて。ドアの高さがちょうど顔くらいで。あのパンチの強いおばあちゃんに『全然見えなかった! もっとちゃんと首伸ばして顔を出しなさいよ~』って言われたんですけど、そんなん分からんしなって(笑い)」

トリノ五輪後、郷里の仙台市でパレードをした荒川静香。この写真には写っていないが、このオープンカーの中に、本郷理華は座っていた(2006年3月27日撮影)

トリノ五輪後、郷里の仙台市でパレードをした荒川静香。この写真には写っていないが、このオープンカーの中に、本郷理華は座っていた(2006年3月27日撮影)

祖母は孫のために発奮して着物を着付けしたが、その全身がお披露目されるタイミングはなく…。

実に「本郷家」らしいやりとりの思い出し笑いも含めながら、眼前で揺れるドーナツ型のメダルが、スケート人生の進む先を照らしていくようだった。

ただ、それは平たんな道のりではなかった。

洗礼を受けてしゃべらなくなった試練の時

「最初はそんなに大変な事だとは思ってなかったんです」

パレードを終えて1週間が過ぎた頃だった。

長久保が名古屋の邦和スケートクラブで指導者として迎えられたのが転機だった。それまで仙台でメインリンクを持たず、時には埼玉県川越市まで1人で新幹線に揺られて通っていた生活に区切りをつけることになった。

小学4年生は、1人でスケート留学をする形で、フィギュア大国へと居を移すことになった。

「スケートで知り合った友達もいるし、全然大丈夫と思っていたんですけど。学校も変わるし、お母さんはいないし。最初の1年はめちゃくちゃきつかったですね」

世界選手権の女子フリーで演技を終え長久保裕コーチ(右)得点を待つ本郷理華(2016年4月2日撮影)

世界選手権の女子フリーで演技を終え長久保裕コーチ(右)得点を待つ本郷理華(2016年4月2日撮影)

長久保、他2名の年上のスケーターとリンク近くのマンションで同居生活が始まった。部屋決めも年上からで、残った和室が自室となった。

当時、突出した成績を残していたわけではなかった。

「仙台、東北だと(順位は)上がってはいたけど、全国となると全然下の方でした」

愛知は、全国上位クラスの選手だらけだった。

「佐藤未生ちゃんが同学年で、村上佳菜子ちゃんが2歳上で。上の世代も下の世代もすごい上手な選手が多くて」

移籍した2006年10月の全日本ノービス選手権(ウェルサンピア倉敷)では、自身はブロック予選を通過できずに本戦出場できない中で、村上がAクラスの7位に入っている。

生活環境に加え、レベルの変化も。ただ、戸惑う暇もないほど、練習に打ち込むしかなかった。

「センスはないと思うんです、私。だから先生に習ってなかったら跳べてなかったんじゃないかなという自覚はあります。今思うととにかく数をやりなさいという感じだったんですけど、数をやってなかったらたぶん、私は無理だったなって思います。だから結果的にすごいありがたかった。けど、その当時は本当に怖いし、何を言っても怒られてました」

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2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて17年。25年4月に初の異動で野球部へ配属となりました。競技経験はありませんが、現在は息子が通う少年野球チームで“球拾い”コーチとして奮闘中。記者としても、様々な話題を拾います。ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。クラフトビール好きです。