〈上〉辰吉丈一郎の足は震えていた…知られざるラスト2戦 バンコクで何があったのか
そこはカリスマボクサーがたどり着いた「終着駅」だった-。今から14年前、元WBC(世界ボクシング評議会)バンタム級王者の辰吉丈一郎の直近2試合は日本ではなく、タイでのノンタイトル戦だった。当時38歳、5年ぶり再起戦だった2008年(平20)の10月と、翌09年の3月。プロボクサーとして最後にリングに上がったバンコク2連戦は、目撃者も少なく、ベールに包まれたまま。現地で2戦とも取材した当時の担当記者が振り返った。上下編の上。
ボクシング
10月26、27日辰吉丈一郎大特集!13記事配信します
- 【知られざるラスト2戦〈上〉】10月26日配信
- 【知られざるラスト2戦〈下〉】10月27日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第1回】10月26日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第2回】10月26日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第3回】10月26日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第4回】10月26日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第5回】10月26日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第6回】10月27日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第7回】10月27日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第8回】10月27日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第9回】10月27日配信
- 【一人語り「ザ・自伝」第10回】10月27日配信
- 【50歳過ぎたカリスマを訪ねて】10月27日配信
08年10月26日、38歳で5年ぶりの再起戦
リングを照らすライトは薄暗かった。
四方を囲む外壁の塗装は、あちらこちらが?がれていた。
カメラを撮るためリングサイドに体を預けると、ゴキブリが目の前を通り過ぎ、思わずのけぞった。高温多湿な外気が会場の中にも流れ込む。それが観客の声援と混ざりあい、独特な空気を生み出していた。
そんな古めかしい、伝統と権威のある会場。
ムエタイ(タイ式ボクシング)の2大聖地の1つとされるラジャダムナン・スタジアムが、辰吉の5年ぶり復活舞台だった。
10月のバンコクは雨期。当日は快晴だった。
午後4時の興行開始に備えて、昼すぎに会場入りした。さっそく、辰吉の写真入り横断幕が目に飛び込んでくる。黒板にスケジュールが書いてあるが、タイ語で読めない。どうやら全部で7試合あるようだ。訳してもらうと、辰吉は何と第2試合だった。
日本ならメインイベントは最後に設定されるが、そんな“常識”は、ここにはない。
しかも辰吉戦以外はすべてムエタイの若者が集う新人戦だった。
さらに現地テレビ放送は第3試合からという。辰吉にとっては89年9月のデビュー戦(対崔相勉)以来の「ノーテレビ」での開催。
異例の扱いだが、日本で「引退選手」の立場にある以上、やむを得ないことだった。
元世界王者に用意された控室は窓がなく、手狭な屋根裏部屋のよう。
そこに男は立っていた。
上半身は裸。そしてトランクス。大部分を占める白地の部分には「JOE」の文字だけ。日本では入れていた、家族の名前は外した。
あえて。
たった1人で、異国で再出発する決意を込めていた。
「海外で試合するのに、家族を引き連れたら迷惑や。1人でやろうと決めたんやから」
家族の名前外し、ガウンも着ず 裸一貫の出直し
第1試合が終わった。辰吉の入場。ガウンは着なかった。まさに裸一貫の出直し。おなじみのテーマ曲「死亡遊戯」は陣営が誰も用意しておらず流れなかった。
代わりに響いてきたのは「タッツヨシ!! タッツヨシ!!」の声援。
むき出しのコンクリートだけの観客席には、タイ邦人250人を含む日本人400人が集まっていた。大声を挙げる親衛隊のハッピには「不死鳥魂」との刺しゅう。
倒され、敗れても、戦いをやめない男の代名詞だった。
試合を待ちわびる歓声の中、人波をかき分けた主役が薄汚れたマットに上がった。
03年9月のアビラ戦以来1857日ぶりの実戦が、ついに始まろうとしていた。
年齢制限などにより国内のプロライセンスが失効。周囲の引退勧告に耳を傾けなかった。
所属してきた大阪帝拳ジムでは練習が禁じられ、知人のフィットネスジムを頼った。主婦や女子大生らがエクササイズする横で、マスク姿の辰吉が単独練習をする光景は、ミスマッチでしかなかった。
しばらくすると、知人から国内ライセンスが不要なタイでの復帰を打診され、「試合ができるなら」と飛びついた。
結果的に、ここが、たどり着いた「終着駅」となった。
この時、38歳。既に髪には白いものが混じり、背中と腹回りには肉が目立ってきた。
スパーリングでも衰えが隠せない。死と隣り合わせのボクシングにおいて、これ以上の試合は明らかに危険だった。
それでも「世界のベルトを取って、父ちゃんの遺骨と一緒に墓に納める」と言って、歩みを止めようとしない。99年1月に亡くなった父・粂二(くめじ)さんの遺骨は、大阪市内の自宅にあった。
わが道を突き進むカリスマが、どのような戦いをするのだろう。
勝ってまだ次に進むのか。
あるいは引退を決意する戦いになるのか。
複雑な思いが去来した。
開始直前。カメラをセットしながら、赤コーナーに目をやった。すると驚いたことに、足が、かすかに震えていた…。辰吉はグローブを合わせ、目を閉じて、祈っていた。長いブランク、試合勘のなさが、いつもの強気を不安にさせていた。
計量があった前日の辰吉のこんな言葉が、脳裏をよぎった。
「今はな、いろんな感情があるんや。緊張、恐怖、不安がある。あとは自分と対話せんと分からん。体が動くか、リングに上がってみないと…」