大学サッカー界の重鎮で学校法人国士舘理事長・大澤英雄氏(86)の長期コラムがスタートした。サッカー歴70年、大学サッカーにかかわって60年。北海道・函館市で生まれ、終戦、高度成長期、バブル崩壊など、日本の近代史と並行してサッカーの道を歩んできた。その豊富な経験をもとに、大学サッカーの現在地、歩んできた道、今後日本が追求し目指すところなど、広い視野から日本サッカーを掘り下げていく。

国士舘大学大澤英雄理事長
国士舘大学大澤英雄理事長

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賛否両論あると思うが、私は根っからの勝利至上主義者である。卑劣なやり方でない限り、勝ちへのこだわりは絶対必要だ。勝利をつかむための準備段階を含め、自分ができる最大限の努力が必要で、勝ちへの執着がなければ、ピッチに立つ資格はないと思っている。それは勝利を必死で目指す指導者や仲間にも失礼だし、応援してくれる多くの人の気持ちを裏切ることだからだ。

私が勝利に執着するようになったのは、おやじの影響が大きかった。かけっこが速かった私は運動会が楽しみだったし、おやじの期待も大きかった。1番を取ることが多かったが、たまに2番になったらおやじは私を許さなかった。家に入れてもらえず、夜まで門の前に立たされた。函館の夜は、小学低学年の子供には骨に染みる寒さと恐怖だった。

夜中に家に入れてくれたと思ったら、暖のない部屋に入れられた。寒すぎて眠れない。冬は雪かき。その後、雪かきでできた雪山に素手を突っ込ませた。それは30分以上にも感じた。手の感覚がなくなる。あまりにもひどい仕打ちだった。真っ赤に凍った手をおやじは自分の手で暖めてくれた。その一瞬の優しさで、30分のつらさを忘れられた。

当時、函館市は子供の相撲大会が人気だった。本物のまわしを締めた本格的なもので、街中の話題になるほどだった。その子供相撲大会で1番にならないと、大変なことになる。おやじ自ら「けいこをつけてやる」と、畳の部屋に私を呼んだ。張り手や突っ張りが飛んできて、私の体は真っ赤に腫れ上がった。投げられすぎて、見かねたおふくろが止めに入るくらいだった。

おやじは「朝飯をちゃんと食わなかったからだ。日ごろからちゃんと栄養をつけろ」など、何らかの理由をつけて怒鳴った。当時は戦争中でまともな食べ物はなく、近所の空き地に大根やはくさい、いも、キャベツなどの野菜を育てて食べた。これは我々5人兄姉の仕事。さらに海で昆布やわかめを拾ってきた。台風の後はイカが拾えた。白米は病気の時だけで、当然ご飯はまずい。食が進まなくても、おやじに言われれば無理にでも食べないといけなかった。

おやじが怖くて、私は子供の時から勝負事には何があっても勝たないといけないと思ったし、勝つための苦しさにも耐えられた。その苦しみより、おやじのしごきの方が大変だったし、怖かったからだ。今思うと、勝つための準備の重要性は、おやじの教えからだったんだろう。

9歳の夏、おやじが急死した。脳血管系の病気だった。終戦8日後の1945年8月23日。大澤慶大郎、47歳だった。死の一報を聞いて私は「あー、よかった」と心の底から思った。それほど、おやじは怖かった。おやじを亡くした悲しみより、解放感が勝った。

おやじにしごかれ怒られながら、私のスポーツ人生は始まった。その記憶があまりにもつらすぎて、指導者になり「暴力で問題を解決するのは絶対にやめよう」と強く思うようになった。反面教師。血のつながったおやじに殴られて、その死を「あー、よかった」と思うほどなのに、師弟といえども、血のつながりもない赤の他人に殴られると、どれだけ憎いだろう。それで上達するとも思わないし、長続きしない。

日本のサッカー界には根強く指導者や先輩の暴力問題が絶えない。今でもどこかでパワハラで苦しむ子供、学生がいるかもしれない。暴力に頼るしか指導できない指導者は、サッカー界、スポーツ界にいてはいけない。許してもいけない。指導者は、勝つための準備、勉強、研究、環境づくりを怠けず、選手はそういう指導者を信じて練習し、努力してこそ、日本のレベルは上がる。その積み重ねは、50年までのワールドカップ(W杯)優勝を目指す日本サッカー協会の目標達成への近道だろう。(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)