ワールドカップ(W杯)カタール大会が終わり、日本代表は世代交代が進んでいる。3月の2試合(ウルグアイ、コロンビア戦)ではベテランDF吉田麻也、長友佑都らが外れ、新戦力5人が加わった。W杯メンバーから11人が入れ替わった。3年後のW杯北中米大会へ、新たな1歩を踏み出す。50年までのW杯優勝、さらにその先の黄金期構築へ、世代の円滑な入れ替えは、大きな課題であり、指導者の宿命でもある。

大学サッカーは、4年で自然と世代交代が繰り返される。高校から預かった大事な逸材を次のステージへ送り込み、また新たな戦力を迎え入れる。4年間、サッカーのスキルや社会人としての振る舞いを教え、サッカー選手としてだけでなく、人間的にも成長させて社会に送り出す。

国士舘大は、1956年(昭31)に初めて日本サッカー協会に登録した。当時の登録人数は13人。サッカー経験者は私を含めて2人で、あとの11人は柔道部や剣道部の補欠選手で構成した。主将とマネジャーをじゃんけんで決めるほどの素人集団だった。それが今は160人以上の学生が集う大所帯へ成長した。関東大学サッカーリーグ3部からスタートし、今は1部に所属するまでになった。

チームを強くしたい。その気持ちは創部当初から変わらないが、本格的にチーム強化に着手したのは75年だった。監督だった私は、それまではスカウトという概念があまり強くなかった。来る者は拒まない。でもこちらから積極的に選手を取りには行かなかった。気になる選手に「声を掛けてみようか」といった程度で、実際に声を掛けてみたら「もう他(大学や実業団)に決まっています」の繰り返しだった。

きっかけは70年代前半。大学選手権1回戦で中大と対戦した。試合前に両チームの選手が、中央へ並んだ。ベンチで眺めたら、うちの選手が小さく見えた。並んでいた選手たちも、隣の選手を肘でつついて「見て。すごい、アイツがいる」などと話していた。戦う前から負けは決まっていた。「これじゃいかん」。来てくれた選手を育てることも大事だが、これでは間に合わない。いい人材をこまめに集めて1人1人の特徴をつかんで強化していこうと決心した。

本格的なスカウトの始まりだ。高校の3大大会。高校総体(インターハイ)、国体、高校選手権の主力選手を集めよう。自分で決めたことは「優勝チームのキャプテンを含めて3人ずつを取る」だった。その年、高校総体は岩手県の遠野高校、国体は山梨県の韮崎高校、高校選手権は静岡県の藤枝東高校が優勝した。その3校に何度も通った。特に遠野高は遠かった。今は東北新幹線が走っているが当時は在来線を乗り継ぎ、10時間をかけて5、6回、足を運んでお願いした。

そのかいあってか、遠野高からは主将を含め3人、韮崎高からも主将を含め3人、藤枝東高からは2人来てくれた。さらに静岡県の島田学園(現島田樟誠高)からもエースFW1人が最後の最後にうちを選んでくれた。さらに一般入試からもいい選手が加わった。その年の新人戦の1回戦で、中央に選手が並んだ時、うちの選手が大きく見えた。頼もしかった。舞い上がったな。4年間が楽しみで仕方なかった。

当時、国士舘大は2部所属。「この選手を育てて3年の時には1部に上がろう」と希望が膨らんだ。選手たちは着実に力を付けてくれたが、当初の目標より1年遅れて1部に昇格した。本格的なスカウトを開始して、その選手たちが4年の時に1部昇格。残念なことに、その選手たちは1部を経験しないまま、卒業してしまった。指導者として学生たちに申し訳ない気持ちだった。

念願の1部。しかし、挑戦した最初の年に最下位になり、1年で2部に降格してしまった。主力がごっそり抜けて、1部で耐えられるほどの戦力がそろっていなかった。最初にスカウトした選手たちでなんとか1部に上がることばかり考えた。「この戦力が4年続く」と、心のどこかで安心していた。翌年もその次の年もスカウトに手を抜いた。つまり、4年後、その先の強化に手を抜いてしまったことで、1部に定着することができなかった。チーム戦略をまったく考えていなかった結果である。

サッカーは続くのに、目先だけを見てしまっては、継続性がなくなる。いい成績を残しても、黄金世代が卒業してしまうと、またゼロからのスタートとなる。世代交代の失敗の代償は大きい。今では、全国各地に卒業生がいて、いい選手を紹介してくれることもあるので、以前よりは円滑にスカウトできるが、いい選手を探し出して誘うことを怠ると、チームはあっという間に弱くなってしまう。

日本代表でも同じことが言える。大学と違うのは、卒業がないことだけ。4年に1度のW杯が過ぎても、主力選手が急にいなくなることはない。しかしどの選手も重ねる年齢とともにパフォーマンスは自然と落ちる。その見極めと判断、中長期プランが同時に必要なため、代表監督という仕事は難しい。時には、心を鬼にする必要もある。

サッカーW杯カタール大会から野球のWBCと、日本国民はスポーツへの関心が高い。今後は1年後のパリ五輪、3年後のW杯と続く。どのスポーツも若手とベテランの融合、また世代交代は、黄金期の継続に必要で、日本を元気にする原動力となるだろう。(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)