飾られていたのは原点の1枚だった。

ガンバ大阪などで活躍した元日本代表MF橋本英郎(43)の引退会見が19日にG大阪の本拠地パナスタで行われた。

過去に所属した全クラブと日本代表のユニホームが飾られていた片隅に、古いユニホームがあった。

「31」の背番号は少し、はがれかけている。

ジュニアユースからユースを経て98年にトップチームに昇格。同学年には後にアーセナルと契約する稲本潤一や、G大阪や鹿島で活躍する新井場徹らがいた。彼らとは対照的に、橋本にとっては華々しい“プロの第1歩”ではなかった。

契約はわずか半年で、月給10万円。活躍の見込みがないと判断されれば、いつクビを切られてもおかしくなかった。

「31番のユニホームはずっと家に置いていたんです。僕はプロになれるかどうか分からない選手でした。競争を何とか勝ち抜いて、1つずつ超えていった」

当時、練習生として半年契約を結んだのは6人いたという。1人、また1人と消えていく。橋本とともに生き残った1人には、同じく日本代表までになるFW播戸竜二がいた。

“はじめの1歩”から“最後の1歩”まで、紆余(うよ)曲折の連続だった。

J1からJ2、J3、JFLと全てのカテゴリーに在籍。現役生活の最後は関西1部おこしやす京都だった。

「ボロボロになるまでサッカー人生を過ごすことができました。左腕は今もしびれがある。過去に蓄積したケガで、もう治りきることはないと言われていました。痛みを抱えながら続けて、パフォーマンスが落ちていくのを感じていた」

会見ではこんなエピソードも明かしていた。

「契約交渉の場で(当時の)強化部長から器用貧乏と言われたこともあったんです。何でもできるけど、スペシャルじゃないよねと。どうしたらいいか悩んでいました。そんな時、コーチだった堀井さんに呼んでいただいて『お前は何でもできるけど全部が平均で抜けたものがない。明神(当時、柏)を知っているか? 明神のように11人いる選手と連係を取る。周りの選手の長所を生かせる選手になったらどうや?』と。それから黒子に徹するようになりました」

体格は普通、スピードもない。ドリブルもシュートも突出していない選手が、先の動きを読み、周囲を生かすことで長く生きのびることとなる。偶然にもその明神が06年にG大阪に加わる。遠藤、二川らとともに「黄金の中盤」と呼ばれ、08年のアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)制覇など一時代を築くことになる。

G大阪の本拠地で会見したのには理由があった。

「始まりのクラブで最後に終わらせたかった。1年目は31番で、2年目から27番。ここから僕はスタートした。メジャーではない選手が引退会見をすることに不安がありましたけど」

今後は監督としてG大阪に戻ってくる可能性もある。それは、本人が最も強く望んでいるであろう。

最後まで涙はなかった。

練習生からはい上がり、全力を出し尽くした現役生活だったから。【元G大阪担当=益子浩一】


◆橋本英郎(はしもと・ひでお)1979年(昭54)5月21日、大阪市生まれ。文武両道を貫き名門・天王寺高から一般入試で大阪市大(現大阪公立大)へ。98年から11年までG大阪に所属し05年のJ1初優勝、08年ACL制覇、09年度天皇杯2連覇などのタイトル獲得に貢献。神戸、C大阪、長野、東京V、今治、おこしやす京都と渡り歩いた。オシム監督が率いた07年に日本代表入りし、国際Aマッチ15試合無得点。実兄はXリーグ(アメフト)アサヒ飲料の元選手。173センチ、68キロ。

引退会見を行い、所属したユニホームを背に笑顔を見せる橋本(撮影・和賀正仁)
引退会見を行い、所属したユニホームを背に笑顔を見せる橋本(撮影・和賀正仁)
現役引退を発表し、古巣のG大阪で会見する橋本(撮影・和賀正仁)
現役引退を発表し、古巣のG大阪で会見する橋本(撮影・和賀正仁)
現役引退を発表し、古巣のG大阪で会見する橋本(撮影・和賀正仁)
現役引退を発表し、古巣のG大阪で会見する橋本(撮影・和賀正仁)
加地や播戸(左)のビデオメッセージに笑顔を見せる橋本(撮影・和賀正仁)
加地や播戸(左)のビデオメッセージに笑顔を見せる橋本(撮影・和賀正仁)