日本は31日にW杯を巡って予選と本大会で8戦未勝利のオーストラリア戦を迎える。宿敵との歴史をたどる連載「俺とオーストラリア」の第7回は「日本の心臓」と呼ばれたMF遠藤保仁(37=ガンバ大阪)。14年ブラジル大会に5大会連続出場を決めた一戦の舞台裏に迫る。

 13年6月5日付の1面を見て、遠藤は「よく覚えていますよ」と言った。普段は1試合1試合にあまり執着しない。だが、このオーストラリア戦は違った。

 「まだ(最終予選を)1試合残していたけど、できればホームで決めておきたいと思っていた。周りも騒がしくなっていたし…」

 引き分け以上でW杯切符を得られる一戦。ホーム埼玉には6万2000人以上が詰めかけた。後半36分、日本は先制点を奪われた。残り時間はわずか。刻々と時間は過ぎ、ロスタイムに突入。敗色が濃くなる中、FW本田のクロスに相手がハンドの反則を犯した。キッカーの本田が同点のPKをど真ん中に蹴り込む劇的な幕切れは、宿敵との歴史を語る上で外せないシーンだ。

 緊迫した状況でピッチ上の遠藤は「いい状況ではなかったけど『何とか同点に追い付こう』と思っていた。監督も周りも冷静だった」と述懐する。残り1分、1秒まで諦めず戦い抜けたのは、ある理由があった。

 11年1月29日。場所はカタールの首都ドーハ。アジア杯決勝の相手はオーストラリアだった。90分で決着がつかず、延長戦に突入。31歳でチーム最年長だった遠藤は「ギリギリの戦い」を感じていた。「若い選手も多くてパニックになる可能性もあった。ただザッケローニ監督は焦っている様子がなかった」。ベンチ前で顔色一つ変えず立っている指揮官の残像は6年半たった今も脳裏にある。試合は延長後半にFW李が決勝点を挙げ、優勝。この1勝が与えた力は絶大だった。

 「アジア杯に優勝して、自信があった。時間とともに自信と監督への信頼は深まっていった」

 その後に始まったW杯予選。3次予選で北朝鮮、ウズベキスタンと難敵に2敗を喫した。だが、12年の最終予選5試合は4勝1分けと安定した成績。ザッケローニ監督の攻撃的なスタイルを理解しようと「(本田)圭佑や長谷部、(香川)真司、(吉田)麻也、今ちゃん(今野)とよく話した。ベンチメンバーと確認することも多かった」。遠藤を中心に全員で戦術を深めた。

 時間を13年6月4日の後半36分に戻す。先制されても、ベンチのザッケローニ監督は、アジア杯決勝と同じ表情だった。焦りの色はない。遠藤は、前方をじっと見る指揮官を視界にとらえ、どんな局面でも「冷静さを保つことができた」という。メンバーもアジア杯決勝と先発11人中10人が同じ。土壇場で力を発揮できるレベルにまでチーム力は高まり、5大会連続のW杯切符をつかみ取った。【小杉舞】

 ◆遠藤保仁 えんどう・やすひと。1980年(昭55)1月28日、鹿児島県桜島町(現鹿児島市)生まれ。鹿児島実高から98年横浜F入団。京都を経て01年G大阪移籍。J1通算557試合101得点。日本代表では02年11月20日アルゼンチン戦に初出場。W杯は06年から3大会連続出場。国際Aマッチ歴代最多出場の152試合15得点。178センチ、75キロ。