元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が1日、亡くなった。80歳。複数の関係者によると、欧州時間の朝10時に亡くなり、死因は心臓発作とみられる。同氏がかつて監督を務めたオーストリアのクラブ、シュトルム・グラーツが公式サイトで発表した。

06年7月に日本代表監督に就任し、07年11月に病に倒れ退任するまで、日本に「考えながら走るサッカー」「ポリバレント」を定着させた功労者が、この世を去った。

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知将が帰らぬ人となった。元日本代表監督のオシム氏が、血管系の病気で亡くなった。複数の関係者によると、自宅のあるオーストリアのグラーツで、欧州時間の朝10時に亡くなり、死因は心臓発作とみられる。

オシム氏は旧ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ生まれ。86年にユーゴ代表監督に就任し、90年W杯イタリア大会で8強入り後、シュトルム・グラーツ監督などを歴任し、03年に市原(現J2千葉)の監督に就任。05年ナビスコ杯で優勝するなどの実績を買われ、06年7月に日本代表監督に就任したが、07年11月に千葉市内の自宅で脳梗塞で倒れ、その後退任した。

「ライオンに追われるウサギが肉離れしますか?」など、印象的な言葉と独特の指導法で多くの日本人や世界の選手に影響を与えた。「考えながら走るサッカー」や「ポリバレント(複数のポジションをこなす)」など、今は当たり前になったことをいち早く日本人選手に植え付け、日本のサッカー発展に貢献した功労者だった。

オシム氏は日本代表監督を務めながらも、アンダー世代の視察を積極的に行い、時には高校選手権や女子サッカーを視察、Jクラブ監督会議にも出席し意見を述べるなど、世代やカテゴリー、ジャンルを問わず、日本サッカー発展のため、尽力した。日本人の指導者育成にも興味を持ち、S級コーチ養成講習会の講師を務めたこともある。

日本の文化にも深い興味を持ち、相撲観戦に両国国技館を訪れ、京都などにも足を運んだ。日本協会の田嶋幸三会長は「最近、具合が悪いとの話は聞いていたが…急な話で言葉が出ない。残念です」と悲しんだ。日本をこよなく愛した世界の知将に、日本協会として今後、追悼式典や6月の代表戦で黙とうなどを計画する予定だ。

◆オシムジャパン 国際Aマッチは20戦12勝5分け(うちPK戦で1勝2敗)3敗。06年8月9日の国際親善試合トリニダード・トバゴ戦(国立)で初采配。DF三都主アレサンドロの2得点で2-0で勝った。その後、アジア杯予選などを戦い、07年7月のベトナムでのアジア杯を迎えた。3連覇に向け1次リーグ2勝1分けで首位通過。決勝トーナメントのオーストラリア戦で、1-1からのPK戦を制して4強入り。だが、サウジアラビアとの準決勝に2-3で敗れ、続く韓国との3位決定戦も0-0からのPK戦で屈し、4位に終わった。その後4試合の指揮を執った後、病に倒れ退任となった。