スピードだけで勝負していた「暴走車」は、16年リオデジャネイロ五輪の落選も乗り越えブレーキも利く「高級スポーツカー」へ進化した。日本が誇るスピードスター、伊東純也(29=スタッド・ランス)は無名の学生時代から甲府、柏を経て欧州5大リーグへと羽ばたいた。世界最高峰の舞台へ向かうまでの道のりを追った。

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甲府のスカウト担当・森淳氏は、伊東を初めて見た衝撃を今も覚えている。2011年10月15日、甲府で獲得が内定していたDF佐々木翔の視察で神奈川大と強豪の流通経大の試合に訪れたときのことだ。流通経大が快勝するだろう…、と見ていたが、残り20分になって投入された神奈川大の1年生が、試合を変えてしまった。

森氏「別にテクニックを見せつけたというわけではない。神奈川大が押されていたが、その選手が入って、強かった流通経大がそのスピードに翻弄(ほんろう)されて。あの1人に対して対応できないまま終わったことにビックリしました」

すぐに、メンバー表をチェックした。伊東純也、前所属・逗葉高。高校時代は見たことがなかったが、神奈川の高校サッカーで「逗葉高校にとても速い選手がいる」との情報は入っていた。「うわさになっていたのは、この選手か」。点と点がつながった。

技術は粗削りだが、おもしろい。1年のころから追い続け、3年のクリスマスイブの日、キャンプ参加を打診した。「ぜひ、お願いします」と意欲を示した伊東。帰り際に「夜は、彼女もいないですから(チームメートの)高木利弥と一緒にクリスマスパーティーを開くんです」と照れた姿も印象に残っている。

年が明けた14年、甲府のキャンプに参加した。伊東の口癖は「大丈夫です」「僕、できちゃいます」「PKはほとんど入れちゃいますから」。超ポジティブ思考の持ち主だった。そうは言うも、練習参加ではPKを何本か外していたのはご愛嬌(あいきょう)。キャンプ後、最終確認として横浜との練習試合に出場し獲得が決まった。

15年シーズンから加入した甲府では特にオフ・ザ・ボールの守備の帰陣、2度追いや3度追い、カバリングを鍛えられた。今の伊東の主戦場である2列目の右は、当時、稲垣祥(現名古屋)がレギュラー核。伊東は先発は11試合、途中出場が19試合で、ジョーカー的な起用が多かった。当時の監督だった佐久間悟氏(現甲府社長)が稲垣を重用したのは、チームのために走り、頑張る姿勢だった。佐久間氏は「伊東の身近なライバルにお手本がいた。稲垣の献身性の部分。環境なんだと思います。最後の10試合までにはある程度、2度追いができるようになっていた」と推察する。

翌年にはリオデジャネイロオリンピック(五輪)が控えていた。五輪代表候補に入り、代表への思いも強くなっていく。甲府スカウト担当の森氏は、15年11月のU-22国内合宿で湘南ベルマーレと戦った練習試合(BMWスタジアム)後、伊東の発言がいつもと違うことに気付いた。「次はできちゃいますから」など常に、前向きな言葉しか発しない伊東が、珍しく「あそこで、もうちょっと行けば良かった」「ああ、やっちゃった」と、後悔の言葉ばかりを口にしたのだ。五輪への思いの強さを感じたと同時に、さらに成長する予感も抱いていた。

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プロ2年目の16年は甲府より上位の柏へステップアップした。当時の監督はブラジル人のメンデス氏。伊東を見た瞬間「右サイドバックで日本代表になる」とコーチ陣に言い切った。伊東にも「お前は右サイドバックで勝負しろ。日本代表にさせてやる」と、開幕から右サイドバックで起用。しかし、メンデス監督は3試合を指揮した後、解任され、伊東の右サイドバックもわずか3試合で終了した。

その後、下平隆宏氏(現大分監督)が監督に就任し、3トップのウイングで伊東を起用した。下平氏は振り返る。「彼は本当に速かった。もうちょっと何か変われば、1つ違うステージに行ける選手だなと感じていた」。

ボールを持ったら果敢に仕掛ける一方で、スピードに乗りすぎて、プレーの精度を欠く場面も多かった。伊東には車の例え話を言い聞かせた。

「フェラーリなどの高級なスポーツカーは、何がスゴイかというと、ブレーキ。危ないと思ったらピタッと止まれる。それが本当の高級車。伊東には“お前は、速いけど暴走車。止まれないし曲がれない。本当の高級車、超一流になるには、止まれて、曲がりたい方向に素速く曲がれる要素も必要ではないのか”とよく話しました」。

スピードを持っていても、縦一辺倒では相手に対応される。中に仕掛けてシュートを打つ重要性も説いた。居残りで、中にカットインしてシュートまで持ち込む個人練習に励んでいた。下平氏は「そこはちゃんと武器にしていきましたね。ちゃんと練習も考えてやってた。一見、ホワンとしてつかみどころがないですが、サッカーのことはよく理解していた」。

ただ、守備には課題があった。甲府で培った2度追い、3度追い、献身性は見せていたが、危機を察知し、空いたスペースを埋める部分は、柏の戦術において合格点とはいかなかった。「前に行く気持ちが強いあまり、攻め残りがありというか少しルーズになる」。そこで先発から外した。

ちょうどリオデジャネイロ五輪の選考期間だった。ある夜、下平氏の携帯電話に知らない番号からの着信があった。出ると伊東からだった。「何でおれ、スタメンじゃないんですか?」。声から、悔しさを感じ取った。「守備が出来ないからだよ」と答えると、伊東は食い下がった。「今、どうしても試合に出たいんです。何が何でも。守備をしっかりやるので試合に使ってください」。後にも先にも、選手から直接電話を受けたのは、伊東だけだった。

その後、話をすると守備の考え方にちょっとした食い違いがあったことが分かった。「本人は守備をしていたつもりらしいんですよ。でも、こっちのイメージする守備は、危険な場所にボールが入ってからの守備ではなく、事前に危ないスペースを埋めることだった」。映像を見せて「その違いは大きい」などと説き改善していった。

リオデジャネイロ五輪は落選した。しかし、その悔しさを糧に、伊東はかねての目標通り、19年2月、ベルギーのヘンクへ移籍し、今夏からは5大リーグのフランスでプレーする。森保ジャパンでは、当初は控えに甘んじていたが、20年11月の国際親善試合・メキシコ戦からは先発に定着。アジア最終予選では歴代最多タイの4試合連続ゴールで7大会連続のW杯出場に貢献した。「暴走車」から「高級スポーツカー」へと変貌を遂げた伊東は、間違いなく、日本の攻撃の核としてW杯へ向かう。【岩田千代巳】

◆伊東純也(いとう・じゅんや)1993年(平5)3月9日、神奈川県生まれ。逗葉高-神奈川大。15年に甲府入り。1年目からリーグで4得点と結果を残し柏へ。19年にベルギーのゲンクに移籍し、今夏、フランス1部スタッド・ランスに加入。17年12月、北朝鮮戦で日本代表デビュー。快足を生かしたドリブル、右足のクロスとシュートが武器。国際Aマッチ38試合出場9得点。176センチ、66キロ。