V・ファーレン長崎の高木琢也監督(50)は、ワールドカップロシア大会中断前最後の試合で、Jリーグに93年の開幕から参戦する10クラブ「オリジナル10」の1つ、横浜F・マリノスとJ1の舞台で初対戦した感慨を語った。

 高木監督は5失点大敗を喫した後の監督会見の冒頭で「ちょっと、余談から入りますけれど」と言い、18年に開幕から25周年を迎えたJリーグについて語り始めた。

 高木監督 Jリーグが出来て25周年。今日、マッチコミッショナーもおっしゃっていましたけど、オリジナル10のチームと、今シーズンから新たにJ1に加わった我々のチームが、こういうタイミングで試合が出来ることで…僕自身も25年前のスタートの時点では、まだまだ若い選手でしたけども、オリジナル10のチームとやれるということを選手に話した時に、気合を入れてくれましたし、月日が過ぎるのは早いなぁと感じながら、今日のゲームに入っていきました。

 高木監督は大商大から1990年(平2)に湘南ベルマーレの前身フジタに入団し91年までプレーし、同年にサンフレッチェ広島の前身マツダに入団。92年にサンフレッチェ広島としてプロチームになるとプロ契約を結び、Jリーグ開幕の93年から97年までプレー。「アジアの大砲」の異名を誇る大型ストライカーだったが、94年に左アキレス腱(けん)を断裂し、97年のワールドカップフランス大会アジア最終予選の日本代表に招集も、本大会では代表から漏れた経験を持つ。

 質疑応答の中で「25年でJリーグはどう変わった?」と質問が飛ぶと、高木監督は自らの経験、歩みも踏まえつつ、著名な外国籍選手によって、日本サッカーがワールドカップを目指せる“世界基準”へと進化した大きな要因がJリーグであったと強調した。

 高木監督 (開幕)当初は、有名な外国の選手がチーム、Jリーグに関わっていった中で、やはり今まで見たことも感じたこともないようなプレーをやっていく中で、看過されて(日本人)選手が成長していく。そしてJリーグもそうですけど、ワールドカップという舞台に進めない日本の時代がありましたので、その中でワールドカップに行くためには、どういうことをしなければいけないか、育成を含めて日本サッカー自体変わっていった。当時、海外でプレーする選手は今みたいに多くなく、チャレンジする選手も出て行く中で、その辺は大きく変わっていったと思います。

 質疑応答の最後に「J1・1年目のチームとして、今後、長崎をどうしていきたいか?」と聞かれると。高木監督は「それは高田(明)社長に聞いてもらわないといけない」とジョークを飛ばした。その上で「結果論からして、マリノスさんと25年まではないですけど、まだクラブとしての開きはありますし、我々としてはローカルのチームの良さをうまく生かしながら、周りの人たちに尊敬、目標にされるチームにしたい」と語った。

 その上で「本当に先の話であれば(長崎は地理上)アジアの大陸には近いので、そういう大会に出られるといいなと思いますけども」と将来的にはアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)のような国際大会を目指せるチームにしたいと抱負を語った。【村上幸将】