日本サッカーミュージアムに大事に保管されている1冊のファイルがある。セピア色に変色した30枚つづりの冊子は、「ヨーロッパサッカー事情視察」と記されている。91年10月4日、Jリーグ加入が決まった10クラブの責任者とチェアマンの川淵三郎、実務者ら15人が欧州視察した際の記録だ。地域密着の百年構想でスタートしたJリーグだが、当時は親会社の支援なしでの発足は難しかった。10クラブの責任者のうち、トップリーグでのサッカー経験者は3人、他は親会社の人事部長など、まったくの素人集団だった。

当時、事務局長として視察に参加した佐々木一樹は「事務局も含め、視察に参加したほとんどの人が、プロサッカーチーム、プロリーグのいろはを知らなかった。チームやリーグの経営や運営、サッカーがどのように地元に貢献できるかなど、16日間で無理やりプロのサッカーというものを頭に詰め込んだ」。オランダ、ドイツ、イングランドの旅程で、毎日15時間以上の勉強会が続いた。

当時の視察で、競技場とスタジアムに対する概念の違いを学んだ。日本は競技場でサッカーの試合が行われていた。競技場とは競技者のための施設で、スタジアムは競技者、訪れる観客、スポンサー、地方行政などすべてを含む施設と学んだ。のちにワールドカップ招致に成功し、各地域にスタジアムが建設されたが、この時の知識が生きたケースもある。

他に、プレーヤーズファーストを実現するための選手会設立や選手年金制度、各クラブの営業実例と努力、放送権、選手の移籍ルールや育成法、サッカーが地域に根ざすためのホームタウン制度など、今のJリーグで当たり前のように実施されているすべてのものを学んで、まねから始めた。親会社となった各企業は、事前準備ができていない段階でプロ発足の波を迎えたため、やむを得ない選択だった。

実はプロ化構想が本格的に動き出す前、日本サッカー協会はJSL(日本サッカーリーグ)1部、2部、地域リーグの全チームに、プロ化への意向を打診した。40以上のチームに聞いたが、はっきり「やります」と表明したのは日産だけで、ヤマハ、全日空など3、4チームが前向きな返答だった。当時のサッカー界を主導した「丸ノ内御三家」と言われた三菱、古河、日立はそろって「難しい。今のままで」との返事だった。

「4チームでもプロ化すべきだ。読売も賛同してくれそうだ。日産と読売があればなんとかなる」との意見もあったが「それでは本当の意味でのプロとは言えない。4チームだけでプロリーグを作ってもすぐに滅びてしまう。最低でも8か10ないと成り立たないだろう」となった。川淵が中心となってホンダやトヨタなど親企業の役員に直談判して回った。自治体にも足を運んだ。「子供たちに夢を見せたい。地域に根ざすリーグを作ります。サッカーがきっかけとなって地域スポーツ活性化へ還元します」と訴えた。

川淵は言う。「もしバブルが3年早くはじけていたら、Jリーグはできなかっただろうな」。各企業や自治体に訴えた、この「地域への還元」が、大きなキーワードとなった。当時日本はバブル絶頂期で、各企業は業績を伸ばしていて、その還元策として「地域貢献室」などの部署を設けるのがはやっていた。企業イメージ向上にもつながるとの判断から、トップダウン方式でプロリーグ発足に賛同するチームが増えた。「なんでサッカーだけ優先的に競技場を貸すのか」と言っていた各自治体も、共感してくれた。

今は再び地域貢献を重視する企業が増えたが、バブル崩壊直後は事業縮小が進み、地域貢献の比重も軽減した。バブルがはじけるのが早かったら、各企業は最初に判断した「難しい。今のまま」を覆さず、プロリーグ発足に共感しなかった可能性が高い。時代の流れにうまく乗ったことで、Jリーグが船出した。

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開会宣言 スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かって、その第1歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎。

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川淵は、Jリーグ開会宣言で「サッカーを愛する」ではなく「スポーツを愛する」と始めている。サッカーを通じて日本全土でスポーツ文化を根付かせたい。その気持ちが込められた宣言だった。【盧載鎭】(敬称略)