小嶺忠敏の下で多くの「個」も育った。00年度の選手権決勝は、草津東(滋賀)に3-0と快勝して、8年ぶりの栄光を手にした。さらにこの年はインターハイ、国体でも優勝を飾る「3冠」を達成した。

このチームのエースが、大久保嘉人だった。決勝でも2得点の活躍で、大会通算8得点。インターハイに続いて得点王を獲得した。大久保を中心に「“野人”岡野以上の俊足」と評されたFW松橋章太(J2熊本)がいた。垂直跳び90センチで空中戦に強いFW佐藤陽介(V・ファーレン長崎)もいた。他校がうらやむ「タレント軍団」で、栄冠を勝ち取っていった。

松橋「小嶺総監督はサッカーに対して熱い方でした。『足が速いから裏にもっと飛び出せ』『ロングボールを蹴ってすぐに展開しろ』とよく言われていた。ほめられるとうれしくて、自信につながりましたね」。

元日本代表DFの徳永悠平(東京)は当時2年だった。8年ぶりの優勝にはしゃいでいたら、カミナリが落ちたという。

徳永「『調子に乗るな!』と怒られたことが、最も印象に残っている。今でも自分の中には常に謙虚でいなければならないという思いはあります」。

ゴールはまだ先にある。そんな小嶺の叱咤が、翌01年度の連覇につながった。

そして帝京に並ぶ戦後6度目の優勝を飾った03年度大会も、強烈なインパクトを残した。決勝戦では「怪物FW」と評された平山相太(東京)が筑陽学園(福岡)を相手に2得点1アシストの大暴れで6-0と大勝した。平山は全5試合で9ゴール。1大会の最多得点記録に並び、史上初の2大会連続得点王にも輝いた。選手権通算17ゴールを挙げるなど、得点記録をことごとく塗り替えた。

平山「印象に残っている言葉は『どんなにうまくいっていても、おごるな』です。1年のとき、選手権で優勝して浮かれている選手に『人生のゴールはここじゃない』と言っていたのがすごく印象深い」。

常に「かぶとの緒」を締め続けた。そして技術的には、選手の個性を徹底的に伸ばした。平山は190センチの長身を生かすため、陸上の日本選手権女子400メートルで2年連続優勝した選手に“弟子入り”させ、俊敏な動きとスピードを身につけさせた。

平山「80分間戦術を徹底できる体力をつけさせてもらいました。高さとか運動量とか、それぞれ個性が生きる戦術を取り入れておられました」。

平山と同級生だった中村北斗(東京)にも、小嶺の「教え」が息づいている。

中村「『常に謙虚たれ』ということを言われた。優勝した時しか喜べないし、選手権で優勝した時以外は胴上げができなかった。『勝ってかぶとの緒を締めろ』とよく言われましたね」。

03年度選手権は、平山の記録以外にも戦後最多のV6、決勝戦最大得点差、国立(準決勝、決勝)での最多得点など記録づくし。小嶺は07年1月9日に総監督を辞任するが、まさに「小嶺・国見」の集大成とも言える時期だった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

【「各県にJリーグのチームが必要」日本サッカー底上げへ、夢は終わらない/小嶺忠敏監督(10)】はこちら>>

◆高校3冠 90年にスタートした高校とクラブチームの日本一を決める全日本ユース、夏のインターハイ、冬の選手権が「高校3冠」と呼ばれている。唯一97年度に本山(鹿島)を擁する東福岡が達成している。国体が単独チームで争われていた69年度まではインターハイ、国体、選手権が3冠で、66年度の藤枝東と69年度の浦和南が達成。99年の長崎県選抜は実質的に国見の単独チームだったために、インターハイ、選手権優勝の国見は「3冠」となった。

◆国見が03年度選手権で達成した記録 ▽戦後最多V=帝京に並ぶ6度。▽決勝戦最大得点差=6点差。47年度の広島高師付中7-1尼崎中に並ぶ。▽決勝6得点=33年度岐阜師範8、47年度広島高師付中7に次ぐ歴代3位。▽決勝通算得点=9度目の決勝で17得点となり、帝京(決勝9回)の19に次ぐ。▽国立での最多得点=準決勝の滝川二(4-0)とあわせて10得点。93年度の9(準決勝8-0東福岡、決勝1-2清水商)を自ら更新。