長崎・島原半島の小さな町の高校に数々の栄光を築いてきた小嶺忠敏は、新たな挑戦に目を向けた。07年1月9日に国見の総監督を辞任。その夏の参院選に自民党から出馬する意思を固めたためだった。

「官民一体にならないと、地域の活性化はできないし、地方が活性化しなければ、いい選手も出てきませんよ」と長崎県の活性化、崩壊しつつある教育界の再建が必要と考えた。病床にあった母ミツキさんの「お前は周りの力で日本一になった。みんなに感謝して、恩返しをしなさい」という言葉が後押しとなった。しかし、残念ながら落選する。防衛相だった久間章生の失言による影響も取りざたされたが「おれに力がなかったから負けたんだ」と決して言い訳はしなかった。自身が思い描く、将来ビジョンゆえの新たな挑戦。それは「チャレンジ精神を忘れたら終わり」というポリシーを持つ小嶺の意思表示でもあった。

現在、65歳の小嶺はJFLのV・ファーレン長崎社長、長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大サッカー部監督と、多くの肩書を持つ。サッカー発展に注ぐ情熱は、まったく衰えていない。今年、V・ファーレン長崎はスタジアムや財政面の問題などがあり、2年連続でJリーグ入りを断念。12年の加入も危ぶまれる状況だ。だが、J参戦への信念が揺らぐことはない。

小嶺「スタジアム問題や財政上のことをクリアするには10年、20年とか、長いスパンでやらなければいけないかもしれない。だが、各県に最低1つはJリーグのチームができることが必要。それが底辺の拡大につながると思っている。地元の選手がそのまま残り、育っていくことが日本で(サッカーが)定着し、文化にすることができると思う。下部組織の充実が日本のサッカー界の底上げになる。トップまでの一貫教育ができ、地域密着できなければ本当の意味でプロスポーツは良くならない」

国見を86年度から21年連続選手権出場に導き、島原商時代を含めて38年間の指導の間に教えた生徒は1000人を超える。多くのJリーガー、日本代表選手を育ててきた。

小嶺「日本のW杯南アフリカ大会での活躍は、底辺拡大によるところが大きい。サッカー人口増や熱心な指導者が増えたおかげでしょう。原石を見つけ出す人がいて、日本代表につながっている。その一環として、Jリーグはある。目標(J入り)に向け努力を続けたい。県独自の色を出していきたいね」

高校サッカー界に革命を起こした重鎮は、今なお夢を追い続けて走り続けている。【菊川光一】(敬称略=おわり)

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◆小嶺の主な功績 島原商時代にインターハイ優勝1回、国見時代は選手権6回、インターハイ6回、全日本ユース2回、国体3回優勝。育てたJリーガーは大久保(セレッソ大阪)、平山(元FC東京)ら30人を超える。日本代表は大久保、平山、徳永ら9人。93年の世界選手権にU-17日本代表監督として臨み、8強入り。