スパルタ指導で「弱小チーム」だった国見を全国屈指の強豪に育てた小嶺忠敏を語る上で、伝統の「マイクロバス行脚」は外せない。マイクロバスでの遠征を本格的に始めたのは、島原商時代の71年から。「練習ばかりではおもしろくない」という、すでに卒業していたOBの言葉がきっかけとなった。

すぐに大型バスの免許を取得して、週末には練習試合を組んだ。当時の移動手段は主に電車。時間も経費もかかり、非効率的だった。マイクロバスを使えば島原港や多比良港からフェリーでスムーズに動け、遠出も可能になる。現在こそ、バス移動は「当たり前」となっているが、当時は画期的な試み。「当時、日本広しといえ(マイクロバス遠征は)私が第1号でしょう」と小嶺は言う。当然、国見でも取り入れた。

初めは長崎県内を移動して練習試合を行っていたが、強豪校を求めて徐々に県外へ進出するようになる。春休みや夏休みは福岡、静岡、大阪までも自分1人で運転して出かけた。当時は道路事情が悪く、福岡まで片道5時間もかかっていたという。

最初のころ、マイクロバスにはプロパンガスや鍋などを積み込み食事は全員で自炊、部員には自分が食べる分の米と食器を持参させた。そして、遠征先の学校の教室や体育館で寝泊まりした。国見では状況は改善され、当時のようなことはない。ただ「武者修行」のおかげで年間にこなす試合数は軽く100を超えた。これだけの実戦を積んで、レベルが向上しないはずがなかった。

小嶺「そりゃ、力がつきますよ。夏休みは35日ぐらい遠征に出かけていたかな。高速で故障して、みんなでバスを押したことも何度もあるよ。今はスーパーとかコンビニエンスストアがあるけど、三合炊きなんかを持っていってました。当時はLPガスが借りられたからね」。

島原商で始めたころは「危険がともなう」と、校長から何度も遠征の中止を求められた。だが「責任はすべて自分が負う」という強い気持ちで続けるうち、いつのまにか認められた。当初は中古バスを活用していたが、小嶺は78年に自費325万円で新車を購入。気合が違った。

島原商OBで山形監督の小林伸二は、マイクロバス遠征を最近のことのように覚えている。

小林「鼻の長い古いマイクロバスを先生が運転してさ、月1で福岡大に遠征してたな。島原の陸上競技場の手前にある坂を、先生がアクセル全開に踏んでも登らないようなオンボロのやつ。先生の運転でエンジンがうなる音を覚えてるよ。それで福岡大で試合するやん。試合に出てるにもかかわらず、なぜかハーフタイムにインターバル走をやらされて、休む間もなく後半が始まるよね。動けるはずないやん。でも不思議とこれが動けるんよ」。

「強さ」は、小嶺の奇想天外な発想からもたらされたものだった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆島原商の低迷からの復活 全国大会の常連校だった古豪も、全国高校選手権大会は1966年(昭41)度大会から4大会連続で出場を逃す。小嶺は68年に赴任。70年度に5大会ぶりに出場(1回戦敗退)も、また2大会続けて逃す。しかし、73年度大会からは、12年連続で出場を果たした。小嶺が国見に赴任した84年度には、教え子たちが初優勝(帝京と両校)を飾っている。マイクロバス遠征を本格的に始めたのが71年。密接な関係がありそうだ。