小嶺忠敏のスパルタ指導によって、国見は着実に力をつけていった。黄金期の到来。90、92年度大会で優勝を飾り、93年度も決勝に進んだ。93年はインターハイでも2度目の優勝を飾っている。かつて、大会アナウンスで「こくみ」と呼び間違えられたのも、遠い過去となっていた。

90年度決勝は、鹿児島実と史上初の「九州決戦」となった。前後半0-0で勝負がつかず、延長戦に突入。延長後半2分、徳島から小嶺を慕って国見にサッカー留学した中口雅史が決勝ゴールを決め、1-0で死闘に決着をつけた。敗れた鹿児島実を率いていた松沢隆司(現総監督)が振り返る。当時の鹿児島実を「優勝できる力のあるチームだった」と言い、大会前の練習試合である程度の手応えをつかんでもいた。それでも、勝てなかった。

松沢「小嶺監督が率いていた島原商とその時の鹿児島実は横綱と前頭2、3枚目ぐらいの差があったけど、私も経験を積み、90年選手権の4、5年前からはライバルと言える位置まで来ていたと思う。そのころは「打倒国見」が目標になっていましたからね。でも戦ってみるとね、手法や原点は変わってないんだけど、パワーに加えて何かが上をいっている。教育者としてオフ・ザ・ピッチ(サッカー以外の指導)にも力を入れていましたし、アイデアマンでもあった。『人を磨く』ことも、強さにつながっていたと思います」。

鹿児島実は選手権で2度優勝している。松沢は小嶺にならい「マイクロバス遠征」を導入。小嶺らが72年に始めた「3校(島原商、福岡商、大分工)リーグ」(現九州高校フェスティバル)にも78年から参戦し、力をつけた。福岡商(現・福翔)の監督だった藤井正訓(現九州サッカー協会名誉会長)は「(3校リーグは)口コミで広がり、参加校が増えた。取り組みは九州全体のレベルアップにつながったと思う」と話す。

92年度に3度目の優勝を飾り、翌93年度も決勝に進んだ。準決勝は東福岡と対戦。躍進中の相手を8-0と粉砕した。当時の監督、志波芳則(現総監督)はショックを隠せなかった。

志波「8点取られて、これ以上にないというぐらいやられた。それからですよ、東福岡が強くなったのは。国見に対して8点分返していこうとね。(小嶺の)試合前の情報収集はすごかったですね。普通、サブの選手を試合会場にやってチェックさせるが、国見はそこが徹底していた。組み合わせが決まると、すぐ対戦相手を知る指導者にどんなチームか細かく聞いていた。バイタリティーもあるが、学ぶことに貪欲(どんよく)でしたよ」。

関係者によると、小嶺はとにかく学ぶ姿勢がすごかったという。Jリーグ開幕前の日本リーグに足を運び、遠征時は現地の関係者に年の上下関係なく、教えを請うた。ある飲食店でサッカー談議になった時だ。メモを持参していなかった小嶺は、割りばしが入っていた袋を開き、メモ代わりにしたという。

東福岡は、97年度にインターハイ、全日本ユース、選手権を制する史上初の高校3冠を達成し、翌年度も選手権を連覇。全国屈指の強豪となった。九州のレベルアップに、小嶺が与えた影響も、また大きかった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆松沢隆司(まつざわ・たかし)1940年(昭15)10月19日、鹿児島市生まれ。66年に鹿児島実監督就任。選手権は78年度に初出場、90年度に準優勝。優勝は95年度(静岡学園と両校)、04年度の2度。教え子には日本代表のG大阪MF遠藤保仁、ロシアのFCトム・トムスクに所属する松井大輔ら。

◆志波芳則(しわ・よしのり)1950年(昭25)12月1日、福岡市生まれ。福岡商(現福翔)-日体大から、72年に東福岡に赴任。97、98年度に選手権2連覇。「高校3冠」の97年は選手権優勝まで公式戦52戦無敗記録を達成。長友佑都(チェゼーナ)ら日本代表選手を輩出。現同校総監督。