練習の「鬼」と呼ばれた小嶺忠敏の本性は、徐々に形となって表れてきた。それは着実に結果に結びついていった。

00年度の優勝メンバー、日本代表の神戸FW大久保嘉人が振り返る。「血ヘドを吐くようなきつい練習に逃げ出しそうになった」。毎日早朝に約1時間半ミニゲームなどを消化。夕方からは約2時間の全体練習後、1000メートル走10本や10キロ走で体力強化に励んだ。試合で走り負けない運動量は、学校の裏山にある4~12キロまで2キロずつ設定されたランニングコースなどで養われた。土日は試合が組まれており、365日、サッカー漬けの生活だった。

「スパルタ指導」は小嶺の代名詞だ。ルーツは、前任地の島原商にある。赴任した68年当時のサッカーは「走る、蹴る、当たる」が主流。血気盛んな小嶺もそれにならった。雲仙・普賢岳の噴火でできた溶岩の塊「焼山(やきやま)」までの往復12キロのランニングは定番メニュー。また試合の内容が悪いと、ハーフタイムでもダッシュを繰り返させ、練習で手を抜くと、ペナルティーとして走らせた。「スタミナがなくては勝負にならない」という考えからだった。

指導者として経験を積むに従い、練習方法も変わっていったが、当時は部員が恐れる“軍隊式”だった。ただ、スパルタと言っても選手に対する「愛」が宿っていた。だから選手も慕った。

だが、怒るときは半端ではなかった。島原商監督時代のある年。3年生レギュラーの一部がインターハイ後、練習のつらさ、厳しさに辞めたことがある。だがその後、小嶺に「戻りたい」と謝ってきた。いきなり鉄拳が飛んだ。ビンタの恐怖のあまり、選手が後ずさりし、気づけば100メートルも動いていたという逸話があるほどだ。また「サボり」「手抜き」「ルール違反」などには、容赦がなかった。島原商OBで77年インターハイ初優勝メンバー、山形監督の小林伸二も当時を知る1人だ。

小林「小嶺先生はとにかくごまかすことが嫌いだった。サボったり、ウソをついたりすることね。下手でも一生懸命頑張る選手が好きだった。高校3年の時に、ユース(日本代表)の合宿に行って戻ってきて、少しちんたら練習してたら最初で最後だけどビンタされたのを覚えてるよ」。

部員に厳しかったが、自分にも厳しかった。練習前は遅くとも3分前にグラウンドに立ち、時間に遅れたことはない。指導者がいつも毅然(きぜん)としていることが大事だというスタンスからだ。指導に情熱を注ぐあまり治療に行く時間も惜しんだ。歯医者に行かず、虫歯を部員にペンチで引っこ抜かせたことがあったという。国見時代も入院を勧められたことが何度もある。だが、その都度「病は気から。練習があるから休めない」と拒んだ。サッカーへの情熱はだれにも負けなかった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆小林伸二(こばやし・しんじ)1960年(昭35)8月24日、長崎県生まれ。島原商から大商大を卒業後、82~90年までマツダでプレー。現役引退後、指導者に転身。広島ユース監督、広島コーチを経て01年から福岡サテライト監督、大分サテライト監督として指導。01年途中から大分監督として指揮、02年にJ2優勝し昇格を果たす。その後、C大阪監督を経て08年から山形の監督を務める。