1988年(昭63)1月8日、国立競技場。100キロの巨体が宙を舞った。長崎・島原半島の小さな町にある国見高校が冬の風物詩、全国高校サッカー選手権を初めて制した。涙を流しながら、宙を舞ったのが小嶺忠敏監督(65=現JFL、V・ファーレン長崎社長)。その情熱的な指導、高校サッカーでは革命的ともいえる戦術で夢を成し遂げ、03年度まで戦後最多6度の選手権Vを飾った。さらに神戸FW大久保嘉人(28)ら、日本代表選手やJリーガーも育てた。島原商、国見を全国強豪校にした、その手腕に迫る。

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練習の厳しさから「鬼」と呼ばれた男が涙した。88年1月8日。全国高校サッカー選手権決勝の舞台、国立競技場を5万5000人が埋めた。その大観衆が見つめたピッチ上で、100キロの巨体が宙を舞い、うれし泣きした。国見が選手権2度目の出場で初制覇。その偉業へと導いたのが、小嶺監督だった。

小嶺「(選手権初優勝は)そりゃ、うれしいなんてもんじゃない。涙がこみ上げてきてね。(前任の島原商時代から)20年目の悲願ですよ。ついにやったという思いでしたね」。

前年度、86年のインターハイで初めて全国大会を制した。その年の選手権、初出場で決勝進出と旋風を巻き起こした。しかし、それは「快挙」ではなく「優勝に届かなかった」という悔しさでしかなかった。87年度の決勝は、前年に0-2で敗れた同じ相手の東海大一(静岡)。1-0で雪辱を果たし、優勝した瞬間、ピッチ上で選手たちは抱き合って泣きじゃくった。そして「ダンプ」と呼ばれた巨体が、選手たちの手によって高々と宙を舞った。

小嶺の手腕がさえまくった大会だった。小嶺が「日本の高校サッカーで初めて」という3-5-2のフォーメーションで、初戦から快進撃を続けた。80年代後半に欧州で4-4-2に対抗して採用され始めたものをいち早く導入。豊富な運動量が自慢の国見にとっては、DFを4人置くよりも、相手の2トップをDF2人でマンマークし、1人を自由に動かせる方が機能しやすかった。また、当時は戦術に取り入れることは珍しかったロングスローを多用。相手に合わせて、DFとFWの選手を入れ替えたりする「小嶺采配」が、はまりまくった。

小嶺「当時はサインプレーは珍しくてね。システムもそうだが、使ったのは私が最初でしょう」。

厳しい練習で土台を作り、同時に綿密な戦略もたてた。初出場から2年連続の決勝進出。そして、日本一を達成した。小嶺の手腕が、小さな町の高校に奇跡を呼んだ。

地元の国見町(現雲仙市)もわいた。優勝報告会が行われたフェリー発着場所の多比良(たいら)港は、イレブンを出迎えた1000人を超える町民たちであふれた。「よくやったー」。「おめでとう」。歓声が飛び交う。寒風が吹く中、そこだけは熱気に包まれた。

小嶺「想像を超えた盛り上がりでした。あの時(報告会)は寒かったのを覚えているが、地元のフィーバーぶりはすごかった。まさに夢物語」。

国見町で少年サッカー普及活動に携った島原商サッカー部OBで、国見町役場をへて現在雲仙市教育委員会に勤める塩田貞祐教育長(57)は「町の盛り上がりは国見サッカー部のネームバリューによるところが大きい。全国で活躍し始めて、県も町に専用のサッカーグラウンドを造ったほど。小嶺先生抜きには何も語れない。ただ者ではないですよ」と話す。人口約1万1000人の小さな町は、一躍全国から注目される「サッカータウン」となった。(つづく=敬称略)【菊川光一】

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◆小嶺忠敏(こみね・ただとし)1945年(昭20)6月24日、長崎県南島原市(旧堂崎村)生まれ。島原商でバレーボールからサッカーに転向。大商大を卒業し68年、赴任した島原商高のサッカー部監督に就任。84年に国見高に移ると同校を06年度大会まで21年連続で全国高校サッカー選手権出場に導き、戦後最多の優勝6回を記録。06年3月に国見の校長を定年退職後も、総監督として指揮した。07年1月9日に総監督を辞任、夏の参院選長崎県選挙区に自民党公認で出馬も落選。V・ファーレン長崎社長などを経て長崎総合科学大教授を務める。

◆長崎県立国見高校 1967年(昭42)に島原高から独立する形で創立。男女共学。全日制の普通科。サッカー部は学校創立と同時に創部。86年度の選手権に初出場して準優勝。翌87年度に初優勝し、通算6回の優勝を誇る。インターハイ6回、全日本ユース2回、国体3回優勝。OBに高木琢也(熊本監督)大久保嘉人(神戸)、徳永悠平(東京)、平山相太(東京)渡辺千真(横浜)城後寿(福岡)ら。所在地は長崎県雲仙市国見町多比良甲1020。