横浜FCは18日、元日本代表のMF中村俊輔(44)が、今季限りで現役を引退することを発表した。横浜M時代の2000年に22歳でJリーグMVPを獲得し、セルティック(スコットランド)でも07年に年間最優秀選手に選ばれた。輝かしい栄冠とは対照的に、ワールドカップ(W杯)では苦い思いを経験した。02年日韓大会はメンバー入りを逃し、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会は結果を残せず。10年大会で日本がPK戦でパラグアイに敗れると、試合会場で代表引退を公表した。
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南アフリカの北東、インド洋に面したダーバンのスタジアムの取材エリアは、薄暗かった記憶がある。オランダに0-1で敗れた直後だったから、そう感じたのかも知れない。
2010年6月19日。W杯1次リーグ第2戦に途中出場した俊輔は、取材が終わるとバスへ乗り込もうとした。ふと立ち止まる。何か言い残したことがあるようだった。近づくと、携帯電話を見せてくれた。
1通のメール。そこにはこう、書かれてあった。
「今は厳しい状況にいるだろう。けど、楽しんで欲しい。サッカーは1プレーでヒーローになれるんだから。諦めずに頑張って!」
送り主は「カズ」とあった。
大会前に定位置を失い、俊輔は苦しんでいた。日本が初出場した98年W杯フランス大会で、メンバー落ちした人からの激励メールが心の支えとなった。
「たとえ出場時間が1分でもいい。ロスタイムからでもいい。1分、1秒。その短い時間で俺は試合を決める。カズさんからメールをもらって、そういう気持ちになることができたよ」
W杯直前合宿を張ったスイス・ザースフェー。夕方に10数個のボールが入った網を担ぎ、誰もいないグラウンドに姿を見せた。
1人で黙々とボールを蹴る音が、山間部の小さな村に響く。邪魔をしてはいけないと、小高い丘に登り、遠くからシュートの本数を数えたことがあった。
日本が16強入りした南アフリカの地でその後、出番は訪れなかった。PK戦で道が途絶えたパラグアイ戦の取材エリアで「代表はもう、いいかな」と漏らした。
もがきながら、「1分」の出番にこだわってきた彼の胸の内を知る番記者はみな、涙を流した。
栄光と挫折。ただ最後まで諦めず、戦っていた姿を、忘れない。
【10年W杯南アフリカ大会担当=益子浩一】
◆中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日、神奈川県横浜市生まれ。横浜ジュニアユース、桐光学園を経て97年に横浜M(現横浜)入り。02年にW杯日韓大会のメンバーから外れ、セリエAのレッジーナに移籍。05年からスコットランド1部のセルティックへ移り、リーグ連覇した07年にMVP。スペイン1部エスパニョールを経て、10年に横浜に復帰。17年から磐田、19年年7月から横浜FC。日本代表として04年アジア杯MVP、06年W杯ドイツ大会、10年南アフリカ大会に出場。国際Aマッチ通算98試合24得点。178センチ、71キロ。