サッカーの元日本代表MFで、今季から関東リーグ1部の南葛SCに挑戦の舞台を移した関口訓充(37)が、プロ19年目で初めてJリーガーではない手探りのシーズンを終えた。

10番を背負った東京・帝京高を04年に卒業後、ベガルタ仙台、浦和レッズ、セレッソ大阪、再び仙台と渡り歩いて18年。昨季までJ通算500試合に迫る(J1で225試合12得点、J2で247試合20得点)出場実績を誇りながら、なぜ一気に国内“5部”相当のカテゴリーを選んだのか。1年を全うした今、何を思うのか。

大みそか31日までに日刊スポーツの取材に応じ、あらためて南葛SCに決めた理由、初の社会人リーグで感じたもの、個人パートナー各社への感謝、環境が激変しながらも完走した2022年を振り返った。【取材・構成=木下淳】

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約1年前の1月16日、配信された1通のプレスリリースが少なからずサッカー界を驚かせた。

「このたび、関口訓充選手が南葛SCへ加入することが決まりましたことをお知らせいたします」

仙台がJ2降格の憂き目に遭ったとはいえ、前年までJ1で28試合に出場していた元日の丸戦士の加入。当時「小さいころから漫画の『キャプテン翼』を読んで、アニメの『キャプテン翼』を見てサッカーをしてきた自分が『キャプテン翼』のチームでサッカーできることが夢のようです!」とコメントを添えたが、あらためて、なぜセミプロも多い関東1部からの再出発を決めたのか。

「さまざま選択肢はあったんですけど、自分を必要としてくれるクラブでプレーしたいという思いがありました。南葛SCからオファーをいただいた時も『うちは“保険”で、Jクラブからの話を待ってくれて構いません』とまで言ってくださって。熱意を感じましたし、実際、今は国内外どこも若返りを図っていて、やはり単純な実力比較より年齢や将来性が重視されるので。確かに自分も若い時は期待してもらいましたし、理解はできます。その中で南葛SCからJリーグを目指す明確なビジョンを聞かせてもらい『次はJの舞台に戻る』『上がっていく』というチャレンジが面白そうだなと思ったんですよね」

可能性の響きに心を動かされた。関口の加入後、元日本代表でFIFAワールドカップ(W杯)組のMF稲本潤一(43)MF今野泰幸(39)DF伊野波雅彦(37)らビッグネームの入団も次々発表。シーズン前、機運は最高潮に達した。

「まずはJFLに昇格することを目標に、いずれJ3からJ2、J1へ。まだまだ、だいぶ先の話ですけど、ACL(アジア・チャンピオンズリーグ)とか海外に出ていくことができれば、やはり『キャプテン翼』人気は世界規模なので、上に行けば行くほど、他のクラブでは集まらないようなスポンサーが集まる可能性を秘めています。非常に夢があり、楽しみなクラブだなと。そこに自分はひかれました」

仙台から契約満了を告げられた21年末。「引退」の2文字も頭によぎったが、再び火がついた。一方、描く夢は壮大でも現実は“5部”から。苦しいことの方が上回った。

「やはり浦和などの環境を知る自分としては、正直しんどい部分がたくさんありました。クラブハウスはないし、専用グラウンドもない。2、3の練習場を転々としてコインパーキングに駐車して、自宅に帰ってからシャワーを浴びることもありますね」

家族とも離れ、単身で生活。食事や洗濯など、かつては「プロサッカー選手業」に専念するためには当たり前だったことも、自らの手で。そこは自身の決断、当然の思いはあるが、やはり大きな違いとなっているのは、練習も試合も、ほぼ天然芝ではなく人工芝になったことだ。

「この道を自分で選んだからには、環境の変化に適応しなければいけない。ただ、天然芝よりも人工芝の方が体に負担が掛かることは、分かっていても体に響きました。この年齢になってきたこともあり、つらかったですね。より自身の状態に気をかけるようになったからこそ、余計に感じました。今、チームにいるハングリーな選手たちのように若ければ、人工芝でも問題ないと思うんですけど、一応はJで18シーズン、体を追い込みながらプレーしてきたので、どうしてもダメージの蓄積はある。古傷の足首とか、特に入念なケアが必要だなと怖い時期もありましたね」

J1では12年に仙台史上最高の2位、浦和ではACLを経験。C大阪でも一時主軸となった。日本代表としては、ついにW杯で頂点に立ったメッシもいたアルゼンチンに1-0で勝った10年10月の国際親善試合でA代表デビュー。それが今季から東京・葛飾区を拠点とするクラブへ。斬新な環境で、ポジティブに感じた発見も多かったはずだ。

「社会人リーグに来て良かったなと思うのは、先ほど言ったように環境がトップレベルではなくても、本当にサッカーが好きな選手やスタッフがたくさんいると分かったことです。一緒にやることで新たな刺激をもらえて、また自分も上がっていこうと思えました。心掛けたことは、仲間との同じ目線。働きながらの選手も多いですし、そこで自分が『俺はJで18年もプレーしてきたんだ』と基準を押しつけても、仲間はついてきてくれない。もちろんプライドは忘れずに持ち続けますけど、今は同じカテゴリーで一緒に戦う仲間に対しては、同じ目線で同じ目標に向かって進んでいこうと。今までもそうですけど、やはり自分はコミュニケーションを取りながら、若手をイジりながら、楽しく厳しく引っ張っていければと思っています」

まだ手探りな部分はありつつ、総じて充実のシーズンになった。要因として、やはり「個人パートナー契約」が大きかった。心からの感謝しかない。

「まさに。クラブ独自の施策も、ものすごく後押ししてくれました」

普段の練習着に法人、個人のスポンサーを付けられる制度で、選手がパートナー数や契約金額を自由に決められる。そのパートナー料から経費(ウエア代など)を除いたものが、年俸にプラスしての選手の収入=活動費になる取り組みだ。

「1年目から自分を支援してくれる方が本当に多く集まってくださいました。その思いも背負ってピッチで戦いましたし、パートナー様とのつながりを身近に感じられるのはJリーガー時代はなかったこと。できなかったこと。大きな力になりました。自分が引退した後も支えてくれる人たちだと信じていますし、今年の挑戦がなかったら出会えなかった人もいますし。このつながりは、ずっと大事にしていければなと」

22年シーズンは最終的に35社もの企業や支援者から協賛を受け、共闘した。長い人生で考えれば、ピッチ内外で成長させてもらえたシーズンだ。ただ、個人の充実感が即座にチームへ浸透するほど甘いものでもなかった。

南葛SCとしては、大型補強を敢行しながら序盤から苦しい展開が続き、開幕6戦勝ちなし。第7節で関口が右コーナーから挙げたボールが初勝利弾の起点となったものの、勝ち切れずドローという展開が多かった。リーグ戦はまさかの7位に終わっている。

全国社会人選手権もまさかの2回戦敗退。JFL昇格を逃した。関東2部からの昇格1年目で、いきなり突破できるほど簡単なステージではなかった。

「今季はJFL昇格という最大の目標を達成することができず、サポーターやパートナーの皆さまには申し訳なかったです」

率直に、支えてくれた人たちへの心苦しさが終戦直後は胸の内を占めた。しかし、借りは結果で返す以外にない。

金言も思い出した。川崎フロンターレでJ1制覇4度、MVP獲得、日本代表では10年W杯南アフリカ大会に出場したMF中村憲剛さんから言われた言葉がある。

「あと5年はやれる」

以来、少なくとも「40歳までは現役」と決めた。迷いなく南葛SC2年目へ。引退も移籍も頭になく、来季も残留する。背水の23年へ、個人パートナーの募集も拡大することにした。共闘に必ず報いるべく準備を進めている。26日には37歳の誕生日を迎えたが、闘志は衰えない。むしろ燃えて次こそ昇格へ導く覚悟だ。

「まずはJFL昇格、絶対に。口ではそう言いながら、本当に簡単ではないと痛感しましたが、必ず達成しないといけない目標として1年でも早くJリーグに戻りたい。そのためには、やはり環境に言い訳することなく、いま自分が置かれている場所で、また輝かないと。もう一花も二花も咲かせたい思いですね。チームとして昇格を果たすことはできなかったけれど、自分個人としては、いい1年になったと思いたい。ポジティブに切り替えれば、この環境に慣れることができましたし、自分なりに楽しんで毎日を過ごして、積み上げてこられた。来年以降につながるシーズンだったなという実感がすごくあるし、結果を出せる手応えもあるので、ぜひ応援よろしくお願いします。皆さん、良いお年を!」