日本が「師」であるドイツに大きな「恩返し」を果たした。

日本サッカーの歴史は、ドイツとともにあった。半世紀近く前の1977年、日本代表選手が西ドイツ(当時)のクラブで分散合宿。本場の指導を受ける中、奥寺康彦が初の日本人欧州プロとしてケルンと契約した。その後も多くの日本選手がドイツでプレーし、今大会に名を連ねたブンデスリーガ(ドイツ国内リーグ)所属選手たちが大仕事をやってのけた。

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フライブルクのMF堂安が同点弾を決め、ボーフムのFW浅野が2点目を決めた。ブンデスリーガでプレーする2人のゴールでドイツに逆転勝ち。ドイツでたくましさを増した選手たちの「恩返し」。日本サッカーが長年「師」として仰いできたドイツを破った。

きっかけは45年前、日本サッカー冬の時代に代表を率いた二宮寛監督は、大胆な強化策だった。遠征先のドイツでの分散合宿。選手を3組に分け、それぞれクラブに送り込んだ。ドイツと太いパイプを持つ同監督が「本物を学んでほしい」とアマチュア選手にプロの世界を体験させたのだ。

西野朗、金田喜稔らとともにケルンの練習に参加した奥寺は、名将バイスバイラー監督に認められて古河電工を退社。欧州初の日本人プロとなった。抜群の速さと正確なプレーで「東洋のコンピューター」と呼ばれ、FW、サイドバックで9シーズン活躍した。

日本サッカーとドイツとの縁は、1960年までさかのぼる。東京五輪を4年後に控えた日本代表の特別コーチとしてデットマール・クラマー氏を招いた。68年メキシコシティー五輪の銅メダル獲得だけでなく「日本サッカーの父」は全国リーグ創設や指導者養成なども提言。日本協会も実現させていったが、代表の弱体化は止められなかった。

二宮氏が取り組んだのは選手レベルの改革。「二宮さんがいなかったら、ドイツに行くこともなかった。日本サッカーのその後も変わっていたかも」と奥寺氏は話した。その後、尾崎加寿夫や風間八宏らがドイツでプレー。アマチュアの時代で移籍も難しく、しばらくドイツで活躍する選手はいなかったが、Jリーグ発足後に再び注目された。

2003年に高原直泰がハンブルガーSVに移籍。稲本潤一、小野伸二ら「黄金世代」が、次々とドイツでプレーした。10年にドルトムントに加入した香川真司は1年目から攻撃の中心として活躍。ドイツ国内での日本人選手に対する評価が一気に高まった。

今季、ブンデスリーガには1部9人、2部7人の選手が所属する。日本人選手は続く一大勢力になった。主力としてプレーするだけでなく、キャプテンを任される選手もいる。

奥寺氏は、日本人がドイツで活躍できる理由として「技術はもちろんだが、戦術理解度が高く、正確にプレーできる」と話し「まじめできちょうめん、似た性格のドイツ人から信頼されるのかな」と笑った。「ドイツから学んで」と二宮氏が選手を送り込んでから45年、ついにドイツに勝った。

20年には日本協会がデュッセルドルフに欧州の拠点を設置。今年9月には、日本協会が同国協会とのパートナーシップ契約を延長した。Jリーグをはじめとして日本サッカーはドイツに影響を受けてきたし、選手もドイツから学んできた。過去2回の親善試合を経て初めて挑んだ真剣勝負。日本サッカーの歴史が、W杯の夢舞台で大きく動いた。

◆二宮寛(にのみや・ひろし)1937年(昭12)2月13日、東京都生まれ。FWとして慶大、三菱重工、日本代表で活躍。31歳で現役引退後は三菱監督を務め、76年に日本代表監督に就任。代表選手の待遇改善などさまざまな改革を打ち出したが、2年半で退任した。その後はサッカー界を離れて欧州三菱の社長として活躍。00年の退職後は日本協会などからの誘いを固辞し、神奈川・葉山町でコーヒー店「パッパニーニョ」を経営する。