ワールドカップ1次リーグ初戦で日本の前に立ちはだかるのが、コロンビアFWラダメル・ファルカオ(32=モナコ)だ。国内2部クラブで13歳199日でプロデビューを飾り、14歳166日でプロ初ゴールを決めた。20年近くたつ今も、ともに破られていない国内最年少記録だ。前回のW杯を左膝負傷で断念した天性のストライカーはフランス1部モナコで復活を遂げ、満を持して初出場。愛称「エル・ティグレ(虎)」の最年少伝説に迫った。【取材=福岡吉央通信員】

 コロンビアの首都ボゴタから北東に約120キロ。標高約2800メートルの街トゥンハを本拠地とするランセロス・ボヤカに所属するファルカオは、99年8月28日のデポルティボ・ペレイラ戦でプロとしての第1歩を刻んだ。2部リーグとはいえ、相手は全員が大人。「試合に出してくれ!」が口癖だった13歳は後半5分に念願のピッチに立つと、身長差のある相手にも気後れすることなく、果敢にゴールに迫っていった。

 当時の監督、エルナン・パチェコ氏(50)はこう述懐する。「まだ13歳だったが、能力を買っていた。ゴールに対する姿勢や、ボールの行方を見極める力があった。技術が高く、精神面も素晴らしかった。実戦で経験を積ませ、さらに成長させるため試合に出した」。愛称「エル・ティグレ」はリバープレート時代についたが、それ以前から、虎が先の動きを読んで獲物を捕まえるように、流れを読んだプレーをしていた。プロ初得点は00年7月25日のエル・コンドル戦。ありふれたゴールだったが、14歳の少年が得点したことは、国内のサッカー関係者に大きな衝撃として伝わった。それまで、監督のパチェコ氏は地元メディアから「なぜ13歳の子供を起用するのか」と批判も受けたが、翌日の新聞には「監督に拍手を」の見出しが躍った。コロンビア国内では今でもこの2つの記録は、南米でのプロ最年少記録として報じられている。

 パチェコ氏が初めてプレーを目にしたのは、ファルカオ10歳の時。自身が監督を務めるファイルプライというジュニアチームで出会った。「この子は絶対にプロになると思った。世界一のFWになりたいと常々言っていた」。チームには、コロンビアやベネズエラでDFとして活躍し、現役を引退していたファルカオの父ラダメル・ガルシアさん(60)がアシスタントコーチとして所属し、二人三脚で金の卵を育てた。

 99年にランセロス・ボヤカと合併し、チームが事実上の下部組織となったことでプロデビューのチャンスが訪れた。パチェコ氏がトップの監督、父ガルシアさんはアシスタントコーチとして同じ方向性を持ち、年齢に見合った指導をしたことで2つの記録が生まれた。

 ファルカオは練習好きで口数は少なく、性格は真面目。大人の言うことをしっかり聞き、愚痴も言わない。相手に敬意を表す規律正しい子供だった。宿題を忘れることはなく、日曜日には教会にも通った。ただ小学生の頃、憧れだった元アルゼンチン代表FWマルティン・パレルモがコロンビアを訪れた際に会わせてもらってから、パレルモをまねて前髪を金髪に染めた時期もあった。ゴールに一目散に向かう今とは違い、当時はボールを持つと相手DFと駆け引きをして抜こうとする選手だった。

 ファルカオの名は父ガルシアさんがファンだったブラジル代表「黄金のカルテット」のボランチ、ファルカンから名付けられた。名前負けすることなく、その後はリバープレート、ポルト、Aマドリード、モナコと世界への階段を駆け上がった。主将を務め、代表で歴代最多29得点を挙げる精神的支柱は5年越しの思いを胸に、ロシアのピッチに足を踏み入れる。

 ◆ラダメル・ファルカオ 1986年2月10日、コロンビア・サンタマルタ生まれ。幼少期はプロサッカー選手だった父が移籍するたびに国内や隣国ベネズエラを転々。99年にランセロス・ボヤカでデビュー。01年にリバープレートに移籍。09年からポルト-Aマドリード-モナコと移り、その後のマンチェスターU、チェルシーでは結果が出ず、昨季からモナコに復帰。ここ2季はリーグ29戦21得点(リーグ3位)、26戦18得点(同5位タイ)と復活。178センチ、72キロ。