「サランスクの小さな奇跡」が生まれた。4月の電撃的な監督交代からわずか2カ月半。西野朗監督(63)が日本を、強豪コロンビア撃破に導いた。日本人として10年南アフリカ大会の岡田武史氏以来2人目の指揮を執り、4年前に大敗した相手に雪辱を果たした。ワールドカップで日本が南米のチームに勝つのは初めて。96年アトランタ・オリンピックでブラジルを破る「マイアミの奇跡」を成し遂げた指揮官が、22年ぶりの世界舞台で再び、歓喜をもたらした。
勝負師だけにサッカー以外は少し手がかかる。勝者の会見場。西野監督は1人で座った。前日は長谷部が耳にかけてくれた翻訳機のレシーバー装着にてこずった。「長谷部がいないと分からない」とポツリ。いや、西野監督がいなければ日本の勝利への道筋は、分からなかった。
勝った。立ち上がりにPKを得て、同時に相手は10人に。「運を持っているのか?」と聞かれると「結果を出す中で、運につながってくれれば、運だけではなく良い選手に恵まれている」。かすれた声で選手に感謝した。
チーム作りは実質1カ月。テストの試合はたった3試合。監督業は2年以上休養し技術委員長を務めていた。ブランクは認めつつ、こうも言った。「自転車に乗れたら一生、乗れるでしょ?」。手腕は確か。チームもスイスイ進ませた。
「マイアミの奇跡」と今も語り継がれる、96年アトランタ五輪でのブラジル撃破。しかし1次リーグで敗退した。周囲は輝かしい経歴だと評するが、本人には違う。今も胸に引っかかっていることがある。帰国後、当時の技術委員会に評価を下された。それは落第に近い「D」だった。
「DでもZでも良かった。当時の評価はそう。だから僕の『攻撃的な~』とか『超攻撃的に~』に至ったのは、その評価をもらっての反骨だったから」
反骨の勝負師は勝っても浮かれない。その22年前を覚えているから。当時もブラジルに勝ったが「次、アフリカの代表(ナイジェリア)にやられた。(勝ったが突破できなかった相手が)ハンガリー。ポーランドと同じような相手。同じ轍(てつ)は踏まないように」と言った。
開幕前だった。サランスクでの大一番をアトランタになぞらえる質問に「小さな奇跡」と返していた。下馬評で圧倒されていたコロンビアを倒したが「小さな奇跡か」と聞かれ「これちっちゃいです」とポツリ。「今日、優勝したのであれば、サランスクのメイン通りを全員でパレードしたい。されど、1つ。3ポイント取っただけ。次の会場に、そしてモスクワの会場まで取っておきたい」。夢を広げる大きな1歩目を踏み出した。【八反誠】
<西野朗(にしの・あきら)アラカルト>
▼生まれ 1955年(昭30)4月7日、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。
▼サッカー歴 早大時代から日本代表に選ばれ、日立製作所(現柏レイソル)でプレー。国際Aマッチ通算12試合1得点。90年に現役引退。
▼指導者歴 引退後、指導者に。96年アトランタ五輪では日本を率い、ブラジルを破る金星を挙げた。ガンバ大阪で05年のJ1優勝、08年のACL優勝など数々のタイトルを獲得し、柏、名古屋も含め監督としてJ1最多270勝。
▼趣味 ウオーキングと寺社仏閣巡り。地元のウオーキング会に在籍中。
▼おじいちゃん 昨年5月に初孫が誕生した。
▼モテる とにかく学生時代から女性に人気。5月にかつての教え子、前園氏とイベントで共演。「相変わらず若くて格好いい。(96年五輪当時も)選手より一番モテていた」と振られると、素直に「そうでしたね」と認めた。
▼好物 ごまと、とろろ。「マイすりごま機ありますから。機械で。ハイブリッドの」と持ち歩く。ただ、他人にごまをすってすり寄るようなことはしない。
▼勝負強い? ギャンブルは一切やらないが、出演したラジオ番組の余興などで2回だけ馬券を買い、いずれも万馬券だったという強運の持ち主。
◆マイアミの奇跡 96年アトランタ五輪の初戦は米フロリダ州マイアミで行われ、西野監督率いる日本がブラジルに1-0と歴史的勝利を挙げた。後半27分、MF伊東が先制。日本は28本のシュートを打たれたが、GK川口を中心にこの1点を守り抜いた。