1920年(大正9)に始まった箱根駅伝。日刊スポーツに保管された秘蔵写真でその歴史を振り返ります。
日刊スポーツが初めて報じた箱根駅伝
- 第23回箱根駅伝復路 10区、首位快走の明大・田中=1947年1月5日
けいれんしながらも前へ、前へ…
- 第24回箱根駅伝往路3区 ケイレンを起こし苦悶する明大・田中(1948年1月6日撮影)
1区八ツ山橋付近の風景
- 第24回箱根駅伝往路 品川・八ツ山橋を渡った左から中大・浅倉、東体大・伊東、法大・池田 (1948年1月6日撮影)
6区スタートの風景。選手と観客の距離は近い!
- 第24回箱根駅伝復路6区 中大・田辺(1948年1月7日撮影)
「陸王」?足袋を履き舗装されていない道を走る
- 第24回復路6区 芦ノ湖畔を行く法大・佐久間(1948年1月7日撮影)
平塚中継所。昔の風景
- 第24回 復路8区平塚中継所 7区安藤寿雄(奥)からトップでタスキを受ける中大8区高杉良輔(手前)(1948年1月7日撮影)
銀座からスタート
- 第25回 往路1区 午前8時、銀座の読売新聞社横を12チームが一斉スタート(1949年1月5日撮影)
応援を背に山を登る
- 第25回 往路5区 七曲がりを行くトップの明大・岡正康(1949年1月5日撮影)
防寒着はどてら!
- 第25回 往路5区箱根郵便局前 往路2位でゴールした後、校歌を歌う早大・後藤秀夫(どてら姿)(1949年1月5日撮影)
関係者に抱えられ
- 第25回往路5区 ゴール前残り200メートル辺りで倒れた中大・西田勝雄(中)は関係者の手を借りゴールまで歩く。選手に触れることは規則違反だが、審判長が認めたため役員会で改めて判定(1949年1月5日撮影)
富士山をバックに
- 第25回 復路8区 富士山を背に馬入橋を渡る早大・大塚良一(1949年1月6日撮影)
復路8区の昔の風景
- 第25回 復路8区2位早大の追い上げにあう明大・槙野敦宣(1949年1月6日撮影)
往路1区、第一京浜の風景
- 第27回往路1区 第一京浜を行く法大・茂木昭寿(区間4位)(1951年1月5日撮影)
サイドカーからの応援
- 第27回往路1区 第一京浜を行く明大・島村和男(区間3位、1951年1月5日撮影)
芦ノ湖と富士山。昔も今も選手を見守る
- 第29回 往路5区 右手に芦ノ湖、富士山を見てトップを走る中大・西田勝雄(1953年1月4日撮影)
往路1区、増上寺の前を走る選手たち
- 第30回 往路1区 増上寺前を通過する先頭集団(1954年1月6日撮影)
トラックに乗り込んだ大応援団
- 第30回 往路1区 六郷橋を渡り川崎に入ってトップ争いをする中大・三浦達郎(左=区間1位)と法大・大脇孝和(右=区間2位)(1954年1月6日撮影)
松並木を走る、昔の風景
- 第30回 往路3区 松並木を行くトップの中大・桜谷嘉彦(1954年1月6日撮影)
往路2区、保土ヶ谷~戸塚間の風景
- 第31回 往路2区 保土ヶ谷―戸塚間を走るランナーの風景(1955年1月2日撮影)
小田原中継所の風景
- 第31回 往路5区小田原中継所 4区吉田斉(左)から5区谷敷正雄へトップでタスキをつなぐ中大(1955年1月2日撮影)
伴走者とともに湯煙の中を走る
- 第33回 往路5区 先輩田中茂樹(右)の伴走で、小涌谷付近をトップで力走する日大・馬場英則(左)(1957年1月2日撮影)
伴走車からの監督の激励は?
- 第34回 復路10区 アンカー瀬戸功夫(左手前=4年)の好走に優勝を確信した日大・森本一徳監督(右)は、名物の叱咤激励ぶりはなく笑みをもらす余裕(1958年1月3日撮影)
しゃがみ込む選手。昔も今も変わらぬシーン
- 第36回 往路4区平塚中継所 7秒差トップでタスキをもらった3区日大・橋本盛広(1年)は中大とデッドヒートの末、胸一つ差で首位を維持しタスキを渡し倒れ込む(1960年1月2日撮影)
往路5区、ゴール直前の風景
- 第36回 往路5区 区間2位の記録でトップを守り往路ゴールへ向かう日大・中村次義(1960年1月2日撮影)
関係者に抱えられ
- 第36回 往路10区郵便局前ゴール 快調に飛ばし日大との差を3分20秒にした中大・横溝三郎(2年)だったが、小涌園・三河屋前で腹痛を起こし突然歩き出すブレーキ、東京教育大に抜かれ往路3位でゴール(1960年1月2日撮影)
雪の箱根路を快走
- 第38回 往路5区 3年ぶりに雪に覆われた箱根路を快走するトップ中大・中島輝雄(1962年1月2日撮影)
足下に注目!裸足で取った区間賞!
- 第40回 往路3区 4位でタスキをもらった国士舘大・村上孫晴(4年)は辻堂あたりで、履いていたシューズを脱ぎ捨て裸足で力走、1時間2分43秒の区間新で2位に浮上(1964年1月2日撮影)
応援の力は絶大です
- 第41回 復路10区 ゴール近くの沿道で応援を繰り広げる大学応援団(1965年1月3日撮影)
1校につき30台の応援車が
- 第41回 往路1区六郷付近 1校につき30台の応援車が出ているといわれるものすごい数の車の中を縫って走る選手たち(1965年1月2日撮影)
拡声器で選手にゲキ
- 第42回 復路8区 力走する草萱鉄弥(手前=4年、区間2位)に伴走車から拡声器で指示を出す順天堂大・帖佐寛章監督。この大会あたりから拡声器が使われ始めた(1966年1月3日撮影)