箱根駅伝初出場で19位だった駿河台大・徳本一善監督(42)の「誰よりも箱根にとらわれた人生」とは-。型破りな箱根ランナーが、指導者として駿河台大を初めての箱根へと連れて行き、しっかりとたすきをつなぎ、確かな1歩を踏み出した。そんな指揮官の指導と生き様とは。

(前後編の後編/前編から読む)


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ある時、部のマネジャーから「髪を染めたい」と相談された。「ダメじゃないけど、ただカッコつけたいなら、駅伝部をやめてからやればいいじゃん」とアドバイスした。


「ウチの選手やスタッフには、髪を染めてほしくはない」。苦い経験からの親心からだった。


▼▼【「心が壊れかけていた・・・」法大時代を回顧/つづく】(残り1936文字)▼▼


「世間から好奇の目で見られた時、きっと、今のあの子たちは耐えられない。僕だってメンタル的に結構きましたから」


法大時代、箱根駅伝に4年連続出場。1年が1区10位、2年が1区区間賞、3年が2区2位。絶対的エースだった4年当時は「心が壊れていた」という。


「1、2年は好きでやっていたのが3、4年からどんどんプレッシャーを感じてきて。人に会えば『お前が優勝に導け』と。とらわれたというか、優勝しか頭になかった」


2002年1月2日箱根駅伝 タスキを渡すことができずにリタイアした法大の2区徳本一善(中央)
2002年1月2日箱根駅伝 タスキを渡すことができずにリタイアした法大の2区徳本一善(中央)

大学NO・1ランナーとして出場した4年で花の2区を走り、右足肉離れを起こして途中棄権した。派手な見た目と強気な発言から注目度が高かった分、誹謗(ひぼう)中傷も受けた。


「箱根は僕だけのものではなく、タスキをつながないといけないもの。償い切れない」。周囲は「気にしなくていい」となぐさめてくれたが、心の整理はつかなかった。


同じ法大で2000年シドニーオリンピック(五輪)にも出場していた陸上男子400メートルハードルの為末大の言葉に救われた。


途中棄権から約半月後、大学内の練習場で、為末と偶然会った。短距離と長距離は同じ練習場を使用していた。しばらく話し込んだ。「目標だけは見失うなよ」と励まされた。


「ずっと五輪に行きたかったので、ここでつぶれていられない。できるトレーニングをしないと」。翌日から足を引きずりながらも、筋トレを再開させた。


大会後、インタビューに応じる駿河台大・徳本監督(撮影・江口和貴)
大会後、インタビューに応じる駿河台大・徳本監督(撮影・江口和貴)

当時、決意したことがある。「悔いのない人生を生きる」。途中棄権した事実は「忘れていないし、背負っているもの」と前置きした上で明かした。


「償えと言われても償えない。あの時のメンバーもそうですが、『頑張っているよね』と言われることで、あの時の失敗を少しは、ぬぐうことができるんじゃないかなって。あの時があったから、悔いのない人生が生きられているよと言えるようにだけは、しておこうと。糧になっているという意味では、あの失敗をネガティブに捉えてなくて。僕の人生にとっては、大事にしないといけないこと」


しっかり胸に刻んで生きてきた。


以前は途中棄権した箱根駅伝の夢をたまに見ていた。しかし、指導者として箱根駅伝の予選会を初めて通過した翌日から、気持ち良く寝られるようになった。


「やっぱりプレッシャーも持ってたし、ストレスかかっていたんだ」と気付いた。


「(それまでに)連れていきたかった選手を連れていけなかった罪悪感がめちゃめちゃ残っている。でも、許してもらえたじゃないけど、頑張っているぞ、というメッセージとして伝えられたのは良かったと思っています」

★「同じ思いをしてほしくない」

監督として初めて臨んだ箱根駅伝は「能力的に20番目。才能がないことを自覚した上で全力で戦う」と冷静な気持ちで臨んでいた。結果は総合19位。1つ上回り「楽しかった」と口にした。


選手を「思い切りやって楽しんでほしい」と激励していた。「楽しんでほしい」には、教え子には、当時1度、心が“壊れた”自分のようになってほしくない。そんな思いも込められている。


「大学4年の時はとらわれていたというか、優勝しか頭になく、苦しかった。選手には同じような経験、思いをしてほしくない」


選手として走り、棄権も経験し、そして指導者として、迎えた初めての箱根駅伝が終わった。


第98回箱根駅伝復路 平塚中継所をタスキリレーする駿河台大7区新山(手前左)と8区出仙(撮影・河田真司)=2022年1月3日
第98回箱根駅伝復路 平塚中継所をタスキリレーする駿河台大7区新山(手前左)と8区出仙(撮影・河田真司)=2022年1月3日

「最後に失敗して、まさか監督として箱根に戻ってくるとは、1ミリも思っていなかった」としみじみと語っていたが、現実になった。


「ひょんなことから監督になったのが、箱根の『ハ』の字もないところで、オレ大丈夫なのかな? と思いながら10年間過ごしてここまで来られた。面白い人生だなと思っています」


今はもう、「面白い人生」と笑いながら、言える。人生のターニングポイントを聞くと、「今だと思う」ときっぱり言った。


誰にも、「今」はあり、それは平等だ。


「今、何をするかで、僕の人生は変わるとひしひしと感じています。個人的には、徳本一善のブランディングと面白いこと、楽しいことをやり切ること。スポーツはいかに認知されるか、いかに応援してもらえるかどうかだから。陸上界を盛り上げるために、陸上ファン以外も取り込みたい」


人々に楽しんでもらうための面白いアイデアは尽きない。あの徳本が監督になって、箱根に舞い戻ってきた。まだ監督としては1歩目を踏み出しただけ。陸上界に吹き始めた新風は、きっとこれからどんどん速度を増し、いろんなものを、巻き込んでいくはずだ。早くもこう誓った。


第98回箱根駅伝復路 19位でゴールする駿河台大10区阪本(撮影・菅敏)=2022年1月3日
第98回箱根駅伝復路 19位でゴールする駿河台大10区阪本(撮影・菅敏)=2022年1月3日

「箱根駅伝の100年の歴史に1ページ刻んだ。彼ら(選手)は、それを一生宝物にして生きていけると思う。(自分には)それだけじゃなくて、連続出場していかないといけないという使命があると思う。この場所に帰ってこれるように1歩1歩やるだけ。次は楽しむんじゃなくて、勝負の男の顔をしてスタートラインに立ちたい」

(おわり)【近藤由美子】


◆徳本一善(とくもと・かずよし)1979年(昭54)6月22日、広島市生まれ。美鈴が丘中1年で陸上を始め、沼田高から法大へ進学。01年ユニバーシアード1万メートル3位。箱根駅伝では1年が1区10位、2年が1区1位、3年が2区2位。大学NO・1ランナーとして出場した4年の2区で途中棄権した。卒業後、日清食品に入社。2012年4月より駿河台大の監督に就任。現役時は173センチ、58キロ。


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