男女団体決勝で敗れて銀メダルの日本チームは一礼する。奥は歓喜するリネールらフランスチーム(撮影・パオロ・ヌッチ)
男女団体決勝で敗れて銀メダルの日本チームは一礼する。奥は歓喜するリネールらフランスチーム(撮影・パオロ・ヌッチ)

「やっぱり最終日よ。最後は金メダルで締めないとな」。7年前、斉藤仁強化委員長は東京開催になった20年五輪に向けて話した。視線の先には男子最重量級があった。全階級を見なければならない立場で、思い切った発言。「絶対に書くなよ」と言われたが、その思いの強さは伝わった。

1964年東京五輪、柔道無差別級を報じる64年10月24日付け日刊スポーツ紙面
1964年東京五輪、柔道無差別級を報じる64年10月24日付け日刊スポーツ紙面

64年東京大会、最終日は衝撃的だった。前日まで全3階級を制しながら、最後の無差別級で惜敗。銀メダルも「日本柔道が負けた」と報じられた。半世紀以上前だが、今も語り継がれる東京五輪の「屈辱」。斉藤の頭にもそれがあった。

84年ロス大会では95キロ級を制し、無差別級の山下泰裕に「先輩、明日は頼みます」と「締め」を託した。無差別級廃止後の88年ソウル大会では、総倒れの日本柔道を最後に救った。「最終日」の大切さから重量級強化に力を注いだが、志半ばで15年に亡くなった。

88年ソウル五輪で柔道男子95キロ超級を制した斉藤仁
88年ソウル五輪で柔道男子95キロ超級を制した斉藤仁

17年、東京五輪の追加種目に混合団体が決まった。背景には、全柔連の組織委員会への強い推しがあった。山下副会長(当時)らが陳情。「団体戦は人気もあるし、テレビ視聴率もいい。入場料収入も1億円いく」と採用を推した熱意が、IOCにも届いた。

日本は団体戦が盛ん。子どもの頃から慣れているし、戦い方も熟知している。1人が取りこぼしても、他がカバーできる。何より選手層の厚さが力になる。採用決定後、世界選手権全勝。当初は日本が強い軽量級からだったが「早く決着しすぎる」と、対戦順が抽選に変更されるほどだった。

57年前の記憶が刻まれた武道館で行われた今大会。男子最重量級は銀メダルだった。16年リオデジャネイロ大会でリネールに肉薄した原沢は奮闘したが、今大会も頂点に届かなかった。半世紀も前の話で本人には関係ないし、酷かもしれないが、64年の無差別級を今大会の100キロ超級に重ねるオールドファンはいる。屈辱は晴らせなかった。

男女混合団体、決勝で敗れ引き揚げる日本の選手たち。左から素根、ウルフ、向、新井、大野(撮影・パオロ・ヌッチ)
男女混合団体、決勝で敗れ引き揚げる日本の選手たち。左から素根、ウルフ、向、新井、大野(撮影・パオロ・ヌッチ)

ただ、今大会は「最後」が最重量級の後に用意されていた。64年東京大会から採用された柔道に、20年東京大会で新たな種目が増えた。「これで最後は確実に金メダルだ」と思った関係者もいたはず。実際に、記者もそう思っていた。

それでも、締めは銀メダルだった。世界選手権、アジア大会で金メダル以外とったことのない種目で、初めての銀。選手は全力だった。絶対がないのも分かっている。それでも、日本柔道にとっては屈辱だ。「最終日」が飾れず斉藤は悔しがっているに違いない。怒っているかもしれない。しかし、これも五輪。フランスの登録人口は約50万人、日本の3倍だという。団体戦が「総合力」なら、頂点を高くするとともに裾野を広げることも必要なのかもしれない。【荻島弘一】

◆64年東京五輪ヘーシンク対神永戦 体重無差別級決勝で神永昭夫が世界王者へーシンクと対戦。9分22秒の熱戦は、けさ固めで一本負け。優勝に大喜びしたオランダ関係者が土足で畳の上に駆け上がろうとし、神聖な畳を理解していたヘーシンクは「待て」と制した。柔道は同大会から正式種目に採用。日本のお家芸だった全4階級制覇は達成できなかった。