地獄から這い上がってきた宮市亮に「今、楽しいですか?」と聞いてみる。

2019年4月、まだ肌寒いハンブルクの街を歩く宮市
2019年4月、まだ肌寒いハンブルクの街を歩く宮市

「ようやくサッカー選手らしくなってきた、サッカー選手になった。そんな感じです」

笑っていた。少し恥ずかしそうにしながら。ただ、言葉は力強かった。プロになって9年、26歳になった。けがも完全に癒え、ようやくサッカー選手としての日々を思う存分、生きている。

「毎日痛みもなく練習場に行って、練習着に着替えて、外に出て、サッカーをして、週末に向けて準備する。週末は試合に出てゴールを決める。もう、半端ないです」

大迫の活躍で流行語になったフレーズも飛び出した。

アーセン・ベンゲル監督に才能を認められ、18歳の誕生日に名門アーセナルと契約を結んだ。中京大中京高の卒業式にも出ず、Jリーグも経験せず直接、欧州に渡った。

10代で日本代表に初招集され、国際Aマッチデビュー。あの時は、宮市の存在そのものが、ある意味、日本サッカーの輝ける未来だった。

2012年5月、アゼルバイジャン戦の宮市
2012年5月、アゼルバイジャン戦の宮市

だが、度重なるけがに泣かされ、いまだに1シーズン通してプレーした経験がない。今はドイツ2部。北部の大都市ハンブルクのザンクトパウリというチームで、開幕からずっと戦力として存在感を示し、シーズン終盤の激しい1部昇格争いに力を注ぐ。

「ここまで、けがもなく、常にいい状態。今シーズンは1度も離脱していない。それが大きなこと。離脱せず、毎日毎日練習を積み重ねることがどれだけ大事かを、身に染みて実感しています」

練習から常に100%を求められ、日々、過酷な生存競争にさらされている。その先にようやく、週末のリーグ戦や各国代表での国際Aマッチ、晴れ舞台がある。注目を浴びる試合の90分は、気の遠くなるような日々の地道な積み重ねの先にだけある。今は、それを確かな手ごたえともに痛感する毎日だ。

「昔、若い時はビッグクラブ、プレミアリーグにいましたし、もちろんプロなんで結果を求めるんですけど、とにかく結果だけを求めていた。バクチというか、1発当ててやろうと。でも、けがをして地道に積み重ねて結果を出すことが大事で、それでしか結果は出ないんだということを学びました。結果は出すものじゃなくてついてくるものだと」

日本人離れした爆発的なスピードで相手をぶち抜くプレースタイルを引っさげ、欧州に乗り込んだ。高校時代、100メートルを10秒84で走った。異次元ともいえるスピードは欧州でも通用した。だが、常にフルスロットル。いつもけがと隣り合わせ。復帰しても、すぐまたアクセルをベタ踏み。取り返そうとして、けがを繰り返す悪循環。いつしか自分を見失ってしまった。それが長い、長いトンネルの入り口だった。

「常に焦りがあった。早く結果を出さないといけないと。海外に行って、まわりを見たら、ビッグクラブでみんなどんどんステップアップして上に行く。ネイマールも同世代。毎日すごく焦っていた。とにかくあいつらに追い付きたいし、できる、できるはずだって」

いつしかもう、宮市亮ではなくなってしまう。

「アーセナルに行って、自分の持ち味だったスピードが長所と思えなくなった。今思えば、速いし、できていたんですけど。その当時は、全くまわりが見えていなかった。まわりがうますぎて、自分なんて全然だめなんじゃないかと自信を失っていた。エジルのパスがいい、あんなパスを出せたら、もう足なんて速くなくてもいい。もうエジルになろうかと思った時もありました。自分が見えなくなった。隣の芝は青く見えるじゃないですけど、自分にないものを求めすぎて、自分を見失ってましたね、当時は」

2013年7月、アーセナルでの宮市。左はウォルコット
2013年7月、アーセナルでの宮市。左はウォルコット

スピードという最大の武器を信じられなくなった。ドイツ代表でワールドカップ(W杯)も制した同僚の司令塔メスト・エジルは練習からため息がでるほど、サッカーがうまかった。あこがれ、本気でなろうとしたことさえあった。今は笑い話にできるが、当時は本気だった。

器用なタイプではない。物事を突き詰めて考えるまじめな性格。日常生活なら、それらすべてがプラスの要素として、いい人・宮市を形作るが、世界中からダイヤモンドの原石とスターだけを集めた極限の日常では、気持ち1つでその長所がマイナスに。

欧州では、自分探しの旅をしている悠長な時間はない。心と体のバランスを崩し、けがの直後も、1発で取り戻そうと無理をして、けがを重ねる悪循環。泥沼にはまりこむ。以降、移籍を繰り返し、結局アーセナルを飛び出し、ドイツ2部に新天地を求め再起を期す。

しかし、ここでも挫折が。無理がたたったのか、選手生命を脅かす2度のけがを負う。致命傷ともいえる膝の大けが。左、右と、前十字靱帯(じんたい)断裂を2度も。「もう終わった」なんていう声もあった。

「けがした瞬間は、もう、この世のネガティブな要素がすべて体に襲ってくるような、そんな感覚でした。ずっとYahoo!とかで前十字靱帯と調べたり、手術のことを調べたりしていました」

家族や周囲にも支えられ、合計2年以上の長期離脱を、無駄にはしなかった。けがの功名と表現すれば簡単すぎるが、自分自身を見直す時間とし、宮市亮という存在を取り戻していく。ようやくつかんだ、サッカーをプレーできる日常。単純だが、その計り知れない喜びで、大事なことに気づく。

2018年9月、インゴルシュタット戦でゴールを挙げたザンクトパウリ宮市
2018年9月、インゴルシュタット戦でゴールを挙げたザンクトパウリ宮市

「あの時は焦っていた。地道な取り組みでしか結果は出せない。今、焦りなんてものは全くない。むしろその焦りがないことで、サッカーを楽しめている。今、サッカー選手であることがどれだけ幸せなことか」

2度、膝を手術してもらったドイツの名医からは、リハビリ後に「お前の膝はもうフェラーリより強く、速く走れる」と背中を押された。完治した両膝への手ごたえも頼りに、1日1日、1歩1歩着実に、地道に前に進む。

ごく身近なJリーグから踏み出さず、いきなり欧州、それも最高峰のプレミアでプロの世界に飛び込んだ。それゆえ、これだけ回り道をしたという見方もある。「今、18歳だとして、アーセナルから話が来たら?」と聞くと「行きます」と即答だった。

「プロとして大事なもの、こういうメンタリティーでいてはいけないんだというものを若くして感じられたことが、今に生きている。もう自分を確立しました。リハビリの期間中、生きていく道はここしかないんだ、スピードを高めていくだけだと確認できた。アーセナルの時は速いといっても、ただ、親からいただいた天性のものを発揮する、それだけ。それでけがをした。今はけがをしない走り方、速く、力強く、自分の武器を感覚的ではなく、研ぎ澄ませて、考えられるようになった。自分の武器をさらに明確にできるようになりました」

あの時があるから、今がある。けがも乗り越えた。つらい思いも、前向きに振り返ることができる今があるから、迷わず言うことができる。10代に戻って、やり直すとしても同じ道を選ぶ。

宮市亮は死んでいなかった。生き返った、いや、生まれ変わった。

今はもう、未来もまわりも気にならない。焦りもない。そんな宮市が、話の途中に何げなく、こうつぶやいた。

「でも、やっぱり、僕も日本代表でW杯を戦うために、海外に行きましたし」

やはり今も、宮市亮は、日本サッカーの未来になり得る。遅いなんてことはない、そう信じたい。

今を必死で生きる。地道な積み重ねの先にだけ、未来がある。

「今シーズン、毎日毎日しっかりやっていたら、結果はついてくる。結果がついてくれば、その先に、どんな未来でも待っているのがヨーロッパのサッカーの世界ですから」

こうして壁をクリアし、這い上がっていく。【八反誠】