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88年日本GPでシーズン8勝目を飾りシーズン総合王者を獲得し喜び合うアイルトン・セナ(左)と本田宗一郎氏
88年日本GPでシーズン8勝目を飾りシーズン総合王者を獲得し喜び合うアイルトン・セナ(左)と本田宗一郎氏

 中嶋悟が日本人初のF1フルタイムドライバーになったのは、1987年、34歳のときだった。20代の若き「天才」たちが繰り広げる高速バトルに、ドライバーとしてはベテランの域に達していた中嶋は、果敢に挑んだ。165センチ、56キロ(当時)と、ドライバーの中でも小柄な中嶋は、もの静かで、感情を表に出すことがなかった。その中嶋の「激情」を見たのが、88年の日本GP、鈴鹿サーキットだった。

 F1参戦2年目の鈴鹿。開幕戦のブラジルGPで6位入賞を果たし、各レースでアグレッシブな走りを見せてきた中嶋への、日本ファンの期待は高かった。そんな中嶋を悲報が見舞った。

 公式予選初日の朝、母親のタマさんが亡くなった。中嶋は、チームの誰にも告げずに、予選を戦った後、岡崎市の実家に駆けつけ、仮通夜を終えて予選2日目のためにコースに戻ってきた。そして、予選自己タイの6番手グリッドを確保した。その時に、涙ぐみながら話した言葉は、今も中嶋の名前を聞くと思い出す。

 「バカな息子を持った親は、何か人にほめられることをすれば喜んでくれるでしょう? 学校で1等賞とったことないから、レースで1等賞とると本当に喜んでくれた。F1はこれからなのに・・・」。

88年日本GP公式予選初日に母親タマさんを亡くしながらも、7位と健闘した中嶋悟(左)
88年日本GP公式予選初日に母親タマさんを亡くしながらも、7位と健闘した中嶋悟(左)

 悲しみをこらえて中嶋は、決勝に臨んだ。スタート直後にはエンジンが止まるアクシデントに見舞われた。順位は14位まで落ちたが、まさに鬼神の走りで、次々と前の車を抜き、7位まで順位を上げた。中嶋の走りに、天国の亡き母への思いを強く感じた。レース後中嶋は「スタートでマシンが止まったけど、誰かが後ろから押してくれた気がした」と語っている。入賞には一歩及ばなかったが、レース後の中嶋は、仕事をやり切った男の顔だった。

 このレースで、アイルトン・セナが勝ち、初の総合優勝を決め、中嶋が開発に尽力したホンダF1が、日本で初勝利を挙げた。レース後の、ホンダブースで行われた祝勝会で、本田宗一郎氏が、当時28歳のセナを抱きしめ、大喜びしていた。優勝したセナ、ホンダ、そして中嶋。88年日本GPが行われた鈴鹿サーキットには、主役が多くいた。取材していた私の中では、中嶋悟が主役だった。【桝田朗】

◆桝田朗(ますだ・あきら)長崎県出身。84年入社。85年から相撲、モータースポーツ担当。その後、サッカー、バトルなどを担当。


あなたが選ぶベストレースは?

 鈴鹿サーキットではオフィシャルサイトで「F1日本GP語り継ぎたい24レース」と題して、過去のベストレースをユーザー投票で決定する企画を開催。選ばれた上位5レースは2013年F1GPの会場でダイジェスト映像放映や写真展を行う。さらに投票者の中から先着10人と抽選で選ばれた10人に豪華賞品をプレゼント!


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