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90年日本GPで日本人初の表彰台となる3位に入り、シャンパンファイトで笑顔の鈴木亜久里(右)
90年日本GPで日本人初の表彰台となる3位に入り、シャンパンファイトで笑顔の鈴木亜久里(右)

 鈴鹿サーキットの14万1000人の大観衆がF1の歴史の目撃者となった。90年10月21日。アレジの欠場で9番手からスタートした鈴木亜久里は、セナとプロストが接触し、ベルガー、マンセルと優勝候補が次々と脱落するサバイバルレースでも攻め続けた。

 「いつまでも同じところに満足せず、前進しよう」というレース哲学を支えに6周目で6位。35周目には3位に浮上した。毎周最速ラップを更新し、燃費を心配したピットから「ガソリン注意」のサインが出されたほどの走り。「残り2周で、走りながら涙が出てきた。格好悪いので、ゴールまでにとめなくてはと、グッとツバを飲み込んだよ」。大声援にこたえるように右手を高くかざしてゴールを通過した。日本人初の3位表彰台。ホームコースに初めて日の丸を掲げた。

 苦い経験がバネになっていた。2年前の88年日本GP。公式予選前日にF1デビューが正式に決まり、ぶっつけ本番でレースに挑んだ。予選開始早々にデグナーカーブの出口でスピンした。「難しい。速い」とF1マシンのパワーに戸惑い21位。攻めの姿勢が裏目に出て、決勝のスタートではホイールスピンで出遅れ、3度もスピンして16位でゴールした。

 翌89年の日本GPでは予備予選でシーズン最高となる8位の走りを見せたが、0秒705差で予選に進出できる上位4台には入れなかった。「本当に悔しい、厳しい」。最終のオーストラリアGPでも予備予選を突破できず、全戦で予選落ちした。非力なマシンの性能に泣いたが、気力が萎えることはなかった。「結果よりも、来年につながるように気持ちを切り替えて走った」。続く90年、体制のしっかりしたチームに移籍し、パワーのあるランボルギーニV12エンジンを手にした。「スピード、ドライビングには」と話していた自信が確信に変わった。そして10月。亜久里は鈴鹿で歴史をつくった。【飯田玄】

◆飯田玄(いいだ・げん) 88年入社。ペーパードライバーながら、90年からモータースポーツ担当に。亜久里の日本GP表彰台、マツダの日本車初のル・マン24時間レースV、カワサキの鈴鹿8耐初Vなどを取材。現在は東京を脱出し、ドライブを楽しむ日々。


あなたが選ぶベストレースは?

 鈴鹿サーキットではオフィシャルサイトで「F1日本GP語り継ぎたい24レース」と題して、過去のベストレースをユーザー投票で決定する企画を開催。選ばれた上位5レースは2013年F1GPの会場でダイジェスト映像放映や写真展を行う。さらに投票者の中から先着10人と抽選で選ばれた10人に豪華賞品をプレゼント!


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