■「0-112」屈辱の初公式戦

「今年もまた、ワシらの記念日が来ますね。この時期になると、今でも思い出すんですわ。若かったなあ、熱かったなあ、ってね。でもね、変わりませんよ。63(歳)になった今でも、気持ちはあの日のままですわ」

1975年5月17日。伏見工業ラグビー部は、京都府春季総体の初戦で花園高校と対戦した。碁盤の目の南にある吉祥院球技場。前年度の全国高校ラグビーで準優勝した相手になすすべなく0-112で敗れた。

試合後、グラウンドの隅に選手が集まる。主将だった小畑道弘は、地面に膝をつき、声を出して泣いた。

「悔しいです。畜生! 先生、俺たちを勝たせてください」

ドラマ「スクール☆ウォーズ」で描かれた名場面。山口良治にとって、監督就任後、初の公式戦だった。授業をサボってタバコやマージャンをするのは日常茶飯事。学校内でバイクを乗り回し、シンナーを吸う生徒もいた。夢や目標のない生徒の心に火をともそうと、山口は1人、1人の部員を殴る。

「頬の痛みは3日もすれば消える。ただ、この悔しさだけは一生、忘れるな!」

そう、叫びながら-。

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■「僕と先生の関係は特殊」

あれから46年もの月日が流れた。小畑に取材の連絡を入れると、こちらから切り出す前に、かすれた、小さな声を絞り出すようにこう言った。

「ああ、ご無沙汰しています。そういえば、もうすぐ記念日ですね。ワシらにとっての」…

まだ、物語は続いていた。

ドラマのモデルにもなったあの時の主将は、闘病生活を送っていた。昨年1月に肝臓と腎臓を患い、3カ月の入院生活を送った。虫の知らせで聞いた恩師の山口は、杖(つえ)をついて京都・伏見にある病院まで駆けつけてきた。

「ワシがまだ元気やというのに、お前が体を壊して入院するなんて、どういうこっちゃねん!」

今年で78歳になる山口は、5年前(16年)に教え子の平尾誠二さんを亡くしている。それ以降、「親より早く逝ったらアカン。ワシより先に逝ったらアカン」という言葉を、繰り返すようになっていた。

「僕と先生の関係は、特殊やからね」

そう小畑は言った後に、46年前の記憶を思い出すように続けた。

「みんな、先生と僕のことを『スクールウォーズや』って言いよるでしょ。僕からしたらね、『何言うとんねん! お前ら、オヤジ(山口)との間に何があったか、知らんやろ!』って思うわけよ。ドラマだけじゃあ、ないからね。

思い出すなあ、やっぱり、あれは、強烈やったなあ。試合に負けて、ただ僕らを殴っただけじゃあ、ないんよ。オヤジは。泣きながら、涙を流しながら、言うてくれたんですよ。ホンマ、すごかった。あの先生は…」

あの大敗の後に、荒れたグラウンドの片隅で。時には学校の近くの定食屋で。監督に就任したばかりの、まだ若かりし頃の山口に呼ばれ、2人で話をした。

「俺は、お前と一緒に、命を捨てる覚悟で、このチームを強くしたいんや。だから、やってくれるけぇ。花園(高校)に負けた時、お前はよう、うずくまって泣いてくれた。それをしてくれたから、他のみんなが気づいてくれたんや。お前らは、やればできる。やれるんや! 俺に付いてきてくれるか」

当時の話をすると、78歳になる山口も、63歳の小畑も、涙を流す。

「この人と一緒に、夢をかなえたい」-

固い決意で結ばれた絆は、不良生徒ばかりが集う弱小高校を日本一にする。

0-112の大敗から1年後の1976年6月5日。京都府春季総体で決勝に進んだ伏見工は、花園高校と再戦し18-12で勝つ。その後、平尾誠二さんらを擁し、わずか5年で高校日本一にまで上りつめる。そんな実体験がドラマとなり、年老いた今でも絆はより強固なものとして、心を結びつける。

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■「断固たる決意が足らん」

今年2月。小畑は病が再発し、伏見の病院に入った。腹水が5リットルもたまり、入院は2カ月半にも及んだ。心配した長男の健太郎(24)が、病院の下から電話をかけてきた。コロナ禍で面会はできない。ただ、いてもたってもいられなかったのだろう。

こっそり、病院の片隅で会った。

「ゴメンなぁ」

健太郎は、そう言ったまま下を向いていた。

父の背中を見て育った。伏見工から進んだ帝京大では、SHとして大学選手権9連覇の原動力になった。19年にトップリーグの神戸製鋼に入ったものの、日本代表経験のあるSH日和佐の陰に隠れ、メンバー入りすらできない日々が続いている。試合で活躍することが、父の楽しみだと知っているからこその言葉だった。

そんな息子の姿に、小畑は吐き捨てるようにあえてこう言った。

「何がゴメンじゃ、アホんだら! 早いこと試合に出んかい! お前、もっとやれるやろ」

いつもそうやって、息子のやる気を引き出してきた。不器用な人間の、心からのゲキだった。小畑は言う。

「うちのセガレもね、頑張っとるのは分かる。でも、そういう気持ちが足らんのとちゃうかなあ。僕らがね、46年前に経験した、あの時のような気持ちですよ。今の伏見(18年に京都工学院に名称変更)も、頑張っとるけど、花園からは遠ざかってしまっている。

ああいうね、先生が教えてくれた断固たる決意のようなものが、足らんのかも知れませんよね。みんなが涙を流しながら、『悔しい』って叫んで、命がけで1つの目標に向かっていくような、思いがね」

退院から、まだ数日しかたっていなかった。体力的にも、そう長話はしない方がいいだろう。「そろそろ」と取材を終えようとすると、何か言い残したことがあるようだった。耳を傾けると、静かに言葉をつないだ。

「あの日が、伏見工の始まりだったんですわ。46年前の、負けた日が。ドラマは終わりましたけどね、僕らはまだ、終わっていないんですわ」-。(敬称略)【益子浩一】

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