ラグビーの神戸製鋼は、平尾誠二、大八木淳史、林敏之らを擁して新日鉄釜石に次ぐ史上2チーム目の7年連続日本一(88~94年度)を達成。ラグビー界に一時代を築き上げました。強さの理由はどこにあったのか。その裏に隠された秘話に迫ります。

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もう、日本ラグビー界にこんな常勝チームは出てこないだろう。関西社会人リーグ、全国社会人大会、そして日本選手権。現在のトップリーグ発足前の「3冠」を、7年連続で独占したのが神戸製鋼(愛称コベルコスティーラーズ)だ。現GM兼総監督の平尾誠二や大八木淳史ら、多数の日本代表を擁したスター軍団。新日鉄釜石(78~84年度)に次ぐV7の偉業は、今も語り草となっている。

彼らの強さの要因は何か。そのルーツは、初優勝以前にさかのぼる。

「あれが神戸の原点や」

男は静かに語り始めた。『壊し屋』の異名を取った名ロック、林敏之。トレードマークは白いヘッドキャップと口ひげ。キックオフ直後から激しいタックルを見舞い、相手を震え上がらせた同大出身の元日本代表は82年(昭57)シーズンから加入した。まだ平尾も、大八木もいない時代。現在はNPO法人「ヒーローズ」理事長として競技普及に務める林が原点と語る「事件」は、彼の入社1年目終了後に起きた。

林 全国社会人大会で釜石に負けた。で、ミーティングがあって、先輩に質問した。「何で神戸製鋼でラグビーをやってるんですか?」ってな。突然で、みんなビックリしてたよ。

当時の神戸製鋼は、関西社会人Aリーグ7年目ながら優勝に手が届かないでいた。上位に顔は出すが、同じ関西リーグのトヨタ自動車に1度も勝てず、社会人大会でも負け続けていた。「歴史はあれど、伝統なし」と言われる始末だった。

林がルーキーだった82年度も、これまでのシーズンと同じような状況から脱却できずに終わった。関西リーグは初戦で大阪府警に6-16の敗北。6戦目のトヨタ自動車にも9-31で敗れ、5勝2敗で3位だった。社会人大会は2回戦で前年まで4連覇中だった新日鉄釜石と対戦。史上最高のSOと言われる松尾雄治率いる釜石との差は歴然で、一方的な展開となった。後半は林と、SH萩本光威の負傷退場も響き、反撃は1PGだけで3-37と大敗した。

そして迎えたミーティング。「何のため神戸でラグビーを?」と林が問うと、先輩らは驚いた。やや間が空き、口々に「そやなあ、1回くらいトヨタに勝ちたいなぁ…」。そんなつぶやきを耳にした林が、ぶち切れ、怒声を発した。

「違うでしょ! 関西リーグで優勝したいからラグビーをやってるんですか!? トヨタじゃない。関西リーグじゃないでしょ。オレらは日本一になるんやないんですか!!」

林 連覇していたのは釜石でしょ。そして実際に試合して、負けたのも釜石。何で「釜石に勝ちたい」と言わんのやと、腹立たしいと同時に悲しかった。

林の目には勝利への強い意識が欠けているように映った。それは練習態度にも表れていた。同大から林と同じ年に入社し、のちに日本代表監督も務めた萩本が語る。

萩本 会社のスタンスとして、ラグビー部のあり方が「ラガーマンの前にサラリーマン」。練習で15人そろわない時もよくあった。上の人と、下の人間との考え方のギャップがすごかった。「足が痛いから今日は練習やらん」とかいう人もいて…。「残業があっても6時半にグラウンドに来ましょう」と自分たちが訴えていたほど。関西で優勝候補と言われてはいたが、内情はひどいもんだった。

若手の必死の声は、会社にも届いた。そして翌83年シーズン、大きなシステム変更が断行される。それこそ、のちの7連覇に通ずる「改革」だった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 

◆神戸製鋼コベルコスティーラーズ 1928年(昭3)10月創部。49年に第2回の全国社会人大会(当時の名称=全国実業団大会)に初出場。62年に新設の関西社会人Cリーグ加入。64年同Bリーグ昇格。68年同Cリーグ降格も、1年で同Bリーグ復帰。76年に同Aリーグに初昇格し、83年度に3チーム同率で初優勝。88年度から全国社会人大会と日本選手権を7連覇。99、00年度も2大会を制し、ともに通算9度優勝。トップリーグ元年の03年度には初代王者に輝いた。森下芳樹部長。本拠地は神戸市東灘区の灘浜グラウンド。

 

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