神戸製鋼に期待の大型新人が加わった。1986年シーズン。同大出身のSO平尾誠二が入社した。全国大学選手権で史上初の3連覇に大きく貢献した日本屈指の司令塔。「監督制廃止」などのシステム改革を契機に「全国の強豪」に成長したチームにとって、全国社会人大会を初制覇するための最後のワンピースといえた。

「ミスターラグビー」こと平尾のその後の活躍は、広く知られている。だが神戸製鋼加入までには、紆余(うよ)曲折があった。同大卒業前、同じ神戸を拠点とする大手アパレルメーカーのワールドに気持ちが大きく傾いていたのだ。ラグビー部は84年創部。新興勢力ながら強化に積極的で、初代監督に元近鉄のロックでジャパン経験を持つ小笠原博氏を招き話題となった。平尾獲得にも精力的に動いていた。

平尾 自分はアパレルの仕事にも興味があった。小笠原さんから熱心に誘われたね。畑崎さん(畑崎広敏会長=創部者)や、今の寺井(秀蔵)社長にも東京で2回会った。本当にワールドええなぁと思った。

それでもためらう理由があった。大学生の平尾が描いた将来の人生設計は、ラグビー選手ではなく、デザイナー。それに通じるアパレル業界は魅力的だったが、デザインの勉強とラグビーの腕試しを兼ねて、英国留学を優先したのだ。

ロンドンでの生活が約半年が過ぎたころ。運命を変える電話がかかってきた。日本ラグビー協会からだった。日本でファッション雑誌の取材を受けたことが、アマチュア規定に抵触する可能性があるとの内容だった。

平尾 「走り続ける男たち」といったテーマで、いろんな業界から僕も含めて4人ほど掲載された。取材はグラウンドじゃなくスタジオ。違和感があったけど、まあええかと思って取材を受けた。もちろん取材費はもらってないし、着ている服のタグや、金額も載せないように配慮してもらっていた。でも審議の対象になってしまった。

波紋は広がった。結局、平尾は直後の日本代表のフランス遠征メンバーから除外されてしまう。同大の先輩で当時日本協会の専務理事だった金野滋(のちに会長、07年に逝去)に「もう日本に帰ってラグビーをしろ。それが丸く収まる方法や」と説得され、帰国を決意した。ただ、留学前に熱心だった社会人チームは、日本協会とのあつれきを恐れて獲得に及び腰。そんな中、神戸製鋼が初めて接触してきた。平尾は数奇な運命を感じて入社した。

若き天才ラガーマンは加入直後から新主将のロック林敏之らとともに、チーム運営の中枢に携わった。ゲームの軸をFWからBKに変化させようと考えた。前年度の社会人大会は新日鉄釜石の8連覇を阻止しながら初Vに届かず。「展開ラグビー」へのモデルチェンジには、敗れた決勝戦でトヨタ自動車に受けた徹底したスクラム戦に反発する意味も込められていた。

平尾 ウチは特にスクラムが弱く、そういう選択肢でしか、局面を打開できないと思ったからね。

スクラムを制するものが試合を制す。神戸製鋼が頂点に立つまでは、これが社会人ラグビーの常識ともいえた。先にV7達成した新日鉄釜石も、その後の2連覇したトヨタ自動車も、例外なくスクラムが強かった。当時は神戸製鋼も含め、どのチームもスクラムを軸にモールやラックなど、FW周辺でのゲーム作りがほとんどだった。「ボールを動かす」。今は小中学生のラガーマンですらも口にする言葉。だが当時、歩き始めた平尾神鋼にとって、それは大きな挑戦だった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

 

◆平尾誠二(ひらお・せいじ)1963年(昭38)1月21日、京都市生まれ。陶化中でラグビーを始め、伏見工3年時にSO、主将として全国優勝。同大では大学選手権3連覇(大会記録)に貢献。卒業後の英国留学を経て、86年神戸製鋼入社。日本代表入りは19歳4カ月で、キャップ数35。W杯は87年の第1回大会から3大会連続出場、91年大会は主将として大会初勝利に貢献。97年2月、現役引退と同時に同代表監督就任。99年W杯は3戦全敗で予選落ち。00年11月に同職を辞任。07年3月に神戸製鋼のGM兼総監督として7年ぶりに現場復帰した。現役当時は180センチ、79キロ。

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