神戸製鋼が1988年度から7年連続日本一の偉業を達成できた大きな要因として、それまでのラグビー界の常識を打破してきたことが挙げられる。同大出身の元日本代表ロックで、現在は高知中央高ラグビー部GMを務める大八木淳史が語った。

大八木 神戸は初優勝して以降、大きく変革した。当時は野球、バレーボール、陸上長距離が社内の専門クラブで、ラグビー部は同好会の位置づけでしかなかった。専門部は午後から練習ができたが、我々は午後6時の定時まで仕事して、そのあとに練習。ただアマチュアだけど斬新なシステム、マネジメントをやり出した。神戸製鋼はラグビー界の先駆者だったね。今こんなことを言えば大問題になるかもしれないが、日本代表に選ばれても辞退しようという動きもあった。アマチュアだから、自分たちのチームを強くさせることに専念しようとね。

会社はラグビー部を広告塔として期待し、バックアップ体制を充実させた。小石交じりの浜砂だった神戸・灘浜の練習グラウンドを総天然芝化。88年シーズンの全国社会人大会と日本選手権初優勝後には、グラウンドに隣接した2階建ての大型クラブハウスが完成した。独立したトレーニングルームも併設。これらは国内では先駆けとなるもので、多くのライバルが視察に訪れるほどだった。またチャリティーフェスタを先んじて行い、地域に愛されるチーム作りを目指した。

クラブハウスのドアには愛称の「Steelers(スティーラーズ)」の文字がある。ラグビーチームに愛称を付けたのも神戸製鋼が最初。V1イヤーに大八木が考案した。大八木は当時、東京総務部の広告宣伝室勤務で、イメージ戦略にもひと役買っていた。

大八木 ラガーマンとしてのスピリットである「Body of Steel、Heart of Gold」を京大の先生に和訳してもらった。「強靱(きょうじん)な肉体と、心優しき男たち」。そこから愛称をスティーラーズにした。当時(NFLの)ピッツバーグ・スティーラーズで兼松江商(現兼松)が商標を押さえていたので、会社の担当者にかけあったりもした。愛称を公表したら「日本代表でもないのに」とバッシングも受けたよ。

変革は練習法やゲームスタイルにも及んだ。84年度から監督制を廃止。「ボールを動かす」という新しい概念に基づき、展開ラグビーを構築した。88年度からは全体練習を週6回から4回に減らした。自主性を重んじ、個人およびポジションごとのスキルアップに時間を費やした。当時入社7年目で、英国に留学経験があるロック林敏之が振り返る。

林 海外のクラブチームを参考にしていた。向こうの練習はせいぜい週2~3回。ただ1部から10部ほどに分かれていて、チーム同士で試合して強化する。空いた時間にはそれぞれがトレーニングできる。オレらも見習ってやろうと。足りないところは自分でやる。自分たちで決めて、自分たちで勝つ。ほかにそんなチームはなかった。画期的やった。オレらみたいなチームが勝つことで、日本のスポーツに新しい風を吹かせるんやと思ってた。

V3達成後、平尾誠二から主将を託されたフランカー大西一平が率いる時代になると、「世界を見よう」という目標が合言葉になった。いち早く春夏の海外遠征も取り入れた。世界的レベルに追いつき、追い越せの精神を保つことで、日本で連覇を続けるモチベーションに変えていた。

さらに、外国人選手の登用にも積極的だった。それが今も語り草となっている、あの快足WTBの劇的な独走トライに結びついた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

◆大八木淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれ。伏見工1年からラグビーを始める。2、3年時に高校日本代表に選出。同大に進み、大学選手権3連覇の主軸として活躍。神戸製鋼では全国社会人大会、日本選手権7連覇の中心。日本代表キャップ30。引退後はタレントとしても活躍し、大河ドラマ「利家とまつ」や映画「極道の妻たち」などに出演。07年に高知中央高GMに就任。現役当時は190センチ、108キロ。主にロック、フランカー。

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