1990年シーズン。神戸製鋼の全国社会人大会V3は、本当に劇的に達成された。主役は、当時オーストラリア代表のWTBだったイアン・ウィリアムス。91年1月8日、ライバル三洋電機との決勝は、秩父宮が舞台だった。FB細川隆弘の4PGのみで後半ロスタイム。12-16と敗色濃厚な場面で、ドラマは始まった。

41分すぎ。ボールがタッチを割った。終了か。スタンドで三洋電機監督の宮地克実(元日本代表)が立ち上がって喜ぶ。ところがレフェリー真下昇(現日本協会専務理事)は試合を続行。さらに神戸製鋼陣内の右中間10メートルライン付近のスクラムとなり、42分ちょうどから再開された。

SH萩本光威がボールを入れて左へ展開。ラックとなり、フランカー大西一平が縦を突いた。萩本は素早くSO藪木宏之につなぐ。その右斜め後ろから、CTB藤崎泰士が叫んだ。「藪木!」。その声が近くに聞こえたと思った藪木は、あえて藤崎を飛ばしてCTB平尾誠二にパス。ワンバウンドしたところを受けた平尾は、タックルされながらウィリアムスにダ円球を託した。逆転の望みは、ハーフライン付近でキャッチしたウィリアムスの足に託された。100メートル10秒8、現役代表の意地で、三洋電機WTBナモアの追走を振り切った。50メートルを独走して、インゴールに入った。

当時4点だったトライだけでは同点どまり。トライ数では下回っており、次の日本選手権には行けない。そこでウィリアムスはゴールポスト中央やや右まで回り込んでボールダウン。そして細川の大事なキックが決まり、逆転。ノーサイド。奇跡が起きた。「ゴールポストに向かって走ることしか頭になかった。最高だよ」とガッツポーズを繰り返した。

平尾 やっぱり印象深い試合の1つだね。

細川 よく覚えている試合。劇的だったから。

初優勝の前後からラグビー界に革命を起こし続けた神戸製鋼は、外国人選手もいち早く登用した。ウィリアムスはシドニー大を卒業後、神戸製鋼からの奨学金を利用して英国のオックスフォード大(以下オ大)に留学。89年に入社した。実はその10年前、日本で初めて外国人を選手として正規登録したのも神鋼だった。

78年にオ大からペイリーとマクファーレンの2選手が来日。同年9月の兵庫県カーニバルに出場し、国内デビューを果たした。翌79年にプロップのウッドヘッド、続く80年にはSOクラークがともにオ大から加入。栄光の7連覇以前のチームを支えた。脈々と受け継がれてきた先に「優良助っ人」ウィリアムスの活躍があったというわけだ。このころは三洋電機も大東大出身のトンガ人選手を獲得して強化を図っていた。

萩本 神戸がプロとして獲得したのは98年に入った(元日本代表SO)アンドリュー・ミラー以降の選手。会社にはもともとオ大との強いつながりがあって、ミラーが来る前はオ大の学生を社員として採用していた。彼らは午前中は日本語教室に行き、午後は契約書のチェックなどの仕事。勉強熱心で、帰国する時にはみんな日本語検定2級を持っているほどだった。

91年度から神戸製鋼の一員となったオ大のロック、マーク・イーガンの妻メレニーは同1級に合格していたという。196センチの長身で、ラインアウトの軸としてV7に貢献したイーガンは現在、国際ラグビーボード(IRB)に勤務。昨夏には日本で開催されたU-20世界選手権の視察で来日した。ジャパンを含む世界ランク11位以下の「セカンド・ティア」底上げが主な仕事という。神鋼を離れても、日本ラグビーの強化にひと役買っているのだ。(つづく=敬称略)【大池和幸】

◆イアン・ウィリアムス 1963年9月23日、シドニー生まれ。父が米スタンフォード大の教授で、少年時代をカリフォルニアで過ごす。この時期は野球に熱中。13歳でオーストラリアに戻りラグビーを始める。一方で19歳以下の野球代表チームで世界大会、高校陸上競技会にも出場し、100メートル10秒8で優勝。84年にオーストラリア代表入り。初キャップは87年のアルゼンチン戦。通算キャップ19。シドニー大卒業。法学と経済学を学ぶ。オックスフォード大留学を経て、89年9月に神戸製鋼入社。協会規約により1年間はプレーできず、90年から公式戦出場。91年から3年間は副将を務めた。現役当時は179センチ、78キロ。現在は母国で弁護士。

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