神戸製鋼は快足WTBイアン・ウィリアムスの劇的トライで全国社会人大会3連覇を決め、勢いづいた。1991年1月15日の日本選手権(国立)でも、学生王者明大を38-15と一蹴した。その晩。主将交代を決意していた当時28歳のCTB平尾誠二は、2学年下のNO8大西一平を誘い、東京のネオン街に繰り出した。FWの軸に成長していた大西に、次のバトンを託そうと考えたからだ。

平尾 主将を3年もやれば「なれ合い」が出て、僕の考えてることも分かってくる。「今日はこんなパターンで練習やな」とか。緊張感がなくなる。大八木さんに相談したら「次は大西ちゃうか」となった。

平尾はロック大八木淳史、本社の亀高素吉社長(当時)と高級スナックでV3の祝杯を挙げながら、大西を説得にかかったが…。

平尾 「オレはキャプテンを降りる。お前しかおらん」と話した。ところがウンと言わない。試合が終わったばかりで疲れてるでしょ。どちらの体力が続くか、みたいな感じ。大八木さんも「FWはオレに任せろ。お前はチームのことを考えればいい」と言ってくれた。もう、夜通しの勝負だった。めちゃくちゃ飲んだのを覚えてますよ。

「平尾の後任」という重荷を感じたのか、かたくなだった大西も、明け方にようやく白旗を掲げた。結果的にこの人選は大正解。新主将となった大西はFWに「激しさ」という新しいエキスを注入した。

平尾 チームは変わった。僕はBKだから、BK中心に考えていた。FWはボールを出すタイミングだけにこだわっていた。大西は速く球を出すというより、FWの細かい動きにこだわりを持たせた。「もっと激しく行け」と、相手を痛めつけるプレーを推奨した。スピード、強さでプレッシャーを与えると相手の動きに制約が出て、攻めやすくなる。また大西は「自分が倒れるなら2人倒してこい」と。つかまえてでも2人倒せと。そういう徹底した思想は僕には足りなかったところですね。

15人が一体となったチームはV4、V5と勝ち続けた。FWのあまりの激しさに「ラフプレー」と批判されもした。週刊誌にも「王者の資格なし」と書かれたこともあった。

このころは「大人の集団」としてすっかり成熟していたが、当時のある主力は「あまり選手同士の仲はよくなかった」と明かした。強い個性の集まりだけに、ある意味当然かもしれない。練習では会話するが、私生活ではまったくコミュニケーションを図らないという関係も多々。チーム内に「大八木派」と「大西派」が形成されていたという。例えば飲み会でも、一緒のフロアにいながら席が遠く離れるといった“派閥争い”が展開。もちろん、どちらにも属さない中立派もいて、ちょっぴり複雑だった。

それでも無敵の強さを発揮できたのは全員が「勝ちたい」という意志を持ち、同じベクトルを向いていたからにほかならない。当時のラグビーはプロ選手が多い現在のトップリーグと異なり、アマチュアスポーツの代表格。そんな中で、神戸製鋼は戦うことに特化した、意識の高いプロ集団ともいうべき存在だった。当時30代のベテランだったSH萩本光威は振り返る。

萩本 いろんなことを言い合いながら、前に進んでいた。言いたいことが言えるのも、今思えば逆によかったんちゃうかな。

大西体制3年目の93年度には6連覇。ただ、CTB細川隆弘が「かなりしんどかった年」と振り返るように、これまで以上に苦しい試合もあった。新旧交代の波とともに、常勝軍団にも暗い影が忍び寄っていた。(つづく=敬称略)【大池和幸】

【貪欲さ薄れ71連勝でストップ 大型補強敢行も意識変化/神戸製鋼9】はこちら>>