神戸製鋼ははたして、新日鉄釜石に並ぶ7連覇を達成できるのだろうか。1994年シーズンの話題は、その一点に集中した。チームは偉業達成へ、大型補強を敢行。CTB元木由記雄(明大)とWTB増保輝則(早大)の現役日本代表コンビや、フランカー伊藤剛臣(法大)CTB吉田明(京産大)プロップ中道紀和(同大)ら強豪大学から即戦力をこぞって獲得した。世代交代が課題となっていたチームは、これで盤石かと思われた。

初優勝からチームを支えた選手は、軒並みベテランの域に達していた。ロック大八木淳史は33歳。31歳になった平尾誠二はコーチ兼任となり、CTBから入社時のSOに戻った。主将は3年間務めたNO8大西一平から、CTB細川隆弘に交代した。10月開幕の関西社会人リーグから新人選手を積極的に起用。トヨタ自動車に73-3と過去最大点差で勝利するなど順調に白星を重ねた。しかし、11月27日のワールドとの最終7戦目に落とし穴が待っていた。

平尾、大西、細川、さらにプレースキッカーのWTB冨岡剛をけがで欠く神戸製鋼は、前半ノートライに封じられ12-13。風上の後半は17分に吉田のトライで逆転したが、28分には19-18の1点差に詰められる。反則を恐れて守備が消極的になった34分。スクラムからの連続攻撃で、痛恨の逆転トライを奪われた。38分のトライで再び1点差に迫ったが、難しい角度から増保のゴールキックは左に外れた。そのままノーサイド。24-25。88年12月11日、同じワールドに敗れて以来の黒星で、約6年間続いていた国内公式戦連勝は「71」でストップした。

平尾 失敗したなと思うのは、新人を5人も使ったこと。いい選手だけど、1年目だから、やっぱりうまくいかなかった。ワールドに負けたけど、オレからしたら考えられない。まさかという感じだった。

平尾は連覇を続けている間、「もう途切れるかも」と不安を感じていた。一方で「次はどうやって強くしようかという、楽しみも大きかった」という。その言葉が示す通り、それまでの神戸製鋼は進化に対して貪欲(どんよく)だった。革新的なシステムや組織改革を打ち出してきた。ただ、メンバー内に若手の比率が高まることで、風向きが少しずつ変わっていた。当時は35歳だったSH萩本光威は出番を年下に譲っていたが、ベンチの外からチームを冷静に分析していた。

萩本 V1からV5くらいまでは、弱いときからずっと積み上げて、常に新しいものにチャレンジしてきた。V6くらいから入ってきた選手は、できあがったところに入ればよかった。だから、何も作らない雰囲気が生まれてきていた。チャレンジ精神がストップしたかもしれない。他のチームは神戸に追いつけ、追い越せの精神でやってきていたから。海外とのつながりも深めて、いい外国人も入るようになっていた。逆に神戸はお山の大将のままで、下手になっていたと思う。

全国社会人大会1回戦のリコー戦で、主将の細川が右アキレスけんを断裂した。2回戦ではサントリーを下したが、トライ数では下回る接戦だった。年が明けて95年1月3日、準々決勝の相手は7年連続の対戦となった宿敵の三洋電機。緊張感が高まり、珍しく試合前に目を潤ませる選手もいた。ハイパントとモールで押し込んで攻撃の起点を作り、序盤からペースを握る。33-18の快勝だった。

ついに全国社会人大会7連覇に王手をかけた。1月7日には、V7を意識して新幹線7号車に全員が乗り込み上京。そして決戦の日。舞台は3万5000観衆が埋め尽くした、東京・秩父宮ラグビー場。澄み渡る青空の下で、東芝府中との戦いが始まった。(つづく=敬称略)【大池和幸】

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