1995年1月8日。日本ラグビー界に偉大な歴史が刻まれた。全国社会人大会決勝戦で、神戸製鋼が東芝府中に37-14と快勝。「北の鉄人」新日鉄釜石と並ぶ、7年連続社会人日本一を決めたのだ。

SO平尾誠二の総決算ともいえる80分間だった。大会中に右アキレスけん断裂で離脱した細川隆弘主将に代わり、若返ったチームをけん引。31歳になっても技術、戦術眼に衰えは見られない。前半早々にハードタックルを受け、ほぼ無意識状態でのプレー。それでも7-7で迎えた前半33分、相手ゴール前でパスを受けると右にフェイントして中央へ切れ込み、勝ち越しトライを奪う。後半19分には華麗なドロップゴール(DG)。まさに「平尾劇場」だった。

表彰式。重圧から解放され、男泣きした。WTB増保輝則、CTB元木由記雄、吉田明ら新人を5人も起用。2カ月前にはワールドに敗れ、公式戦連勝を「71」で止められていた。最も苦しんだ年だけに、感激を隠せなかった。初めて人前で見せる涙だった。

平尾 あれは計算でも何でもなく、自然に出てきた。本当にきついシーズンだったから。東芝もマコーミックらがいて、強かった。うまく乗り切り、勝てたことで、フッと糸が切れた。メンバー的に考えて、「ああ、これでまたしばらく勝てるわ。やり終えた。もう、コイツらがおるから大丈夫」と思ったから…。

1月15日の日本選手権では、大会史上最多得点となる102-14で大東大を粉砕。7年連続日本一を決めた。もはや学生王者は敵ではなかった。

その2日後、阪神・淡路大震災が発生した。V7の祝福ムードははるか遠くに吹き飛んだ。本社ビルが傾き、ラグビー部選手も多く住む社宅は1階部分がつぶれた。練習拠点の灘浜グラウンドは液状化現象で半分以上が泥まみれ。住んでいた六甲アイランドから車を飛ばしたロック大八木淳史は、今もその光景が忘れられない。

大八木 ガスが充満していた。あちこちに段差ができて、へこんだり、水がたまっていた。本当にメチャメチャやった。

復旧には約半年も要した。全員が集まったのは3週間後。調整遅れは小さな影を落とした。SH堀越正巳が新主将となったチームはこの95年度、全国社会人大会の準々決勝でサントリーと20-20の引き分け。トライ数で下回り、前人未到8連覇が消えた。

平尾 震災があったけど、強かったら勝っていたと思う。まだその力は十分にあった。うまく引き分けに持ち込まれた。まだ世代交代の途中で、元木らが完全に育っていなかった。

初優勝時から支えてきたロック林敏之、SH萩本光威、FB綾城高志がこのシーズン限りで引退。その後も大八木、細川、WTB冨岡剛至ら黄金期メンバーが次々とジャージーを脱いだ。99年度に再び頂点に戻るまで、4年間も苦しみを味わうことになった。

平尾は96年度を最後に現役を退き、直後に日本代表監督に就いた。そして現在は神戸製鋼のGM兼総監督として、近年低迷するチームの再建に尽力している。これまでのラグビー人生を「本当は長く続けるつもりじゃなかった」と振り返った。かつて留学したロンドンでデザインの勉強、仕事をするつもりだったという。

小学校では野球少年だった。中学も野球部に入るつもりだった。同級生がボール拾いする姿に、嫌気がさした。スポーツ界独特の風習に反発心があった。楽しそうに練習するラグビー部に入った。どう弾むか、どう転がるか分からないダ円球に夢中になった。

慣例を打破したいと、神戸で次々に改革を打ち出した。80年代終盤からラグビー界のパイオニアとして時代を駆け抜け、勢力図も塗り替えた。ミスターラグビーによって「デザイン」された栄光の7連覇は、いつまでも語り継がれる伝説となったのだった。(おわり=敬称略)【大池和幸】

◆V7後の神戸製鋼 95年度に8連覇を逃し、96年度は全国社会人大会の準決勝で敗退。97年度は同1回戦で敗退。創部70周年の98年度は、15年ぶりに専任ヘッドコーチ制が復活し、萩本が招聘(しょうへい)された。新人WTBとして大畑大介が加わり全国社会人大会は準決勝敗退も、出場枠が1から4に拡大した日本選手権は決勝まで進み、復活の兆しが見えた。

99年度は5年ぶり社会人日本一に輝くと、日本選手権も優勝。00年度も全国社会人大会を制し、日本選手権はサントリーとの優勝を分け合った。03年度にトップリーグが創設され初代王者。その後は07年度まで5、5、6、5位と低迷。昨年度は4強入りしたが、プレーオフ1回戦で敗退れた。今季も5位でリーグを終了。日本選手権出場をかけたトーナメントが、23日に控えている。

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