今から5年前の春だった。

「ミスターラグビー」と称された元日本代表監督の平尾誠二さんは、胆管細胞がんを患い、闘病生活を送っていた。

ごく限られた数人にしか、病状は伝えていなかった。昔からの仲間、恩師でさえ、知らされていなかった。当時は神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を務め、カリスマ性は際立った。神戸の繁華街で酒を飲んでも店を出ると、顔を知られないよう、口元を手で覆うこともあった。素顔を必要以上には明かさず、心をさらけ出す相手もそう多くはなかった。

古くから神戸製鋼にラグビー用品を納入してきた上門俊男さんは、レストランで食事を共にした。平尾さんより、16歳年上。年の差はあっても、気心が知れた仲だった。

その日、兵庫・尼崎市の自宅に戻ると、上門さんは妻にこう漏らした。

「サラダを一口しか食べへんかったわ…」

体調が思わしくないことを、すぐに察した。ラグビーに対する情熱、理論…。まだ神戸製鋼に入る前から平尾さんとは交流があり、誰よりも強いラグビーに対する思いを知り、私生活で相談を受けることもあった。だからこそ目に映った、痩せてしまった姿を、受け止めたくはなかった。現実から目を背けるために、あえて、自らに言い聞かせるように言った。

「多分、腹が減ってなかったんやろうな」

その日から顔を合わせる機会は、徐々に減っていった。

「平尾は死なん」-

そう言うことで、自らの心を落ち着かせていたのかもしれない。まるで呪文を唱えるように、口にしていた。治療にはノーベル医学生理学賞を受賞した、京大の山中伸弥教授があたっていることも知っていた。

「平尾のことは山中(伸弥)先生が治してくれる」

だが、現実は無情だった。

半年後の2016年10月20日。平尾さんは静かに息を引き取った。53歳だった。

上門さんは1週間、部屋に引きこもって泣き続けた。「平尾は死なん、平尾は死なん」…。何度も、何度も。そう思い続けてきた。

精神的なショックは想像以上に大きかった。親兄弟と同じような関係だった。

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■人生救った「おっさん」

平尾さんがまだ小学生だった頃、1970年代の神戸製鋼は関西社会人Bリーグ(2部)を戦っていた。Aリーグは日本代表WTB坂田好弘氏らを擁した近鉄の黄金期。神戸製鋼は1975年度に入れ替え戦で京都市役所を破り、Aリーグ初昇格を決めた。

その頃、上門さんは大阪商業大を卒業し、ラグビー用品の販売を始めていた。店を持たず、車で各チームを回る日々。情熱で突き進む20代の若者を受け入れてくれたのが、地元の強豪である報徳学園高校、そして全国制覇へと少しずつ歩みを進めていた神戸製鋼だった。

1985年、ラグビー界の注目を一身に集めるスターが生まれていた。平尾さんだった。同志社大の中心選手として、全国大学選手権3連覇を達成。すでに日本代表に選出されていた逸材は、留学のため、英国に渡った。そこで予期せぬ出来事が起きた。

まだラグビー界がアマチュアリズムに厳しかった時代。ファッション誌にモデルで登場したことが規定に接触した。日本代表候補から除外され、激しい批判にさらされた。もとより、本人に違反の認識はなかった。だが、多くの企業からの誘いもなくなった。

高校時代は京都・伏見工(現京都工学院)を日本一に導き、大学でも順風満帆だった。日本ラグビー界の期待を背負う存在だったとはいえ、まだ22歳。心を痛め、進む道に迷いが生まれた。

胸中を察した上門さんは、平尾さんに声をかける。伝えたのは、こんな言葉だった。

「そんなもん、普通に帰ってきたらええんや」

帰国すると、親しい知人が集まり、元気づけようと歓迎パーティーを開いた。会食の場で上門さんと再会した。

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生前、平尾さんは周囲にこう漏らしていたという。

「おっさんが『おっ、おかえり』って言ってくれたんが、うれしかってん」

親しみを込めて「おっさん」と呼ぶ上門さんがかけたのは、この一言。

「おっ、おかえり」-

ラグビー界の目は厳しく、冷ややかになっていた。だからこそ、その言葉に救われ、平尾さんは涙を流していた。

■金を残すな、人を残せ

2021年2月24日。

まだ寒さの残る、よく晴れた日だった。

平尾さんの後を追うように上門さんはこの世を去った。翌日が74歳の誕生日だった。

2019年W杯日本大会を控えた2年前の5月に、胃がんが見つかった。2020年12月からは、体に激しい痛みが生じていた。最後は家族に見守られ、静かに息を引き取った。

尼崎市の阪急電鉄武庫之荘駅から南へ徒歩5分の場所に、ラグビー用品店「ウエカドスポーツ」はある。43年前、上門さんは結婚を機に店を構えた。

ぶれない信念で、商売を続けた。

金を残すな、人を残せ-

30年ほど前からは2人の愛娘の子育てと並行し、10歳下の妻も店で接客した。

用品店から4軒隣に「茶利」というお好み焼き屋がある。ウエカドスポーツを訪れる少年少女を夫妻は食事に連れ出した。

「大盛りモダンよろしくね」

そう店主に告げて、代金を支払い、店に戻る。強豪校だろうが、15人がそろわない合同チームであろうが、分け隔てなく接し、腹いっぱい食事をさせた。店の冷蔵庫には常に冷えたジュースを用意した。スパイクの靴底に付ける、わずか500円のアルミポイント購入が目的の高校生にも、来店するやジュースを差し出した。お好み焼きを振る舞い「またね~」と家に帰らせた。

上門夫妻を知る人は皆、親しみを込めて「兄さん」「姉さん」と呼んだ。

中でも上門さんの思い入れが強いチームがあった。

「若かった頃の俺を、受け入れてくれたのは神戸製鋼と報徳学園。この2チームがあるから、今がある」

まだ関西でもそれほど強くなかった時代から、平尾さんが入団し、林敏之氏、大八木淳史氏らとともに黄金時代を築いた。日本選手権7連覇(1988~1994年度)も見守った。神戸製鋼の歴史を、誰よりも知る人だった。

その中でも、看板選手にまで成長した、平尾さんへの思いは特別だった。

【平尾誠二、人前で初めての涙/神戸製鋼V7連載】はこちら>>

2003年度にトップリーグ初代王者となって以降は優勝から遠ざかった。主に夏から秋にかけてシーズンが始まり、年明けに日本一が決まる。生前の上門さんは身内にこう漏らした。

「6月や7月にかかってくる電話は『ゴルフかな?』『飯かな?』とワクワクする。でも、1月や2月の電話はこたえるなぁ…」

シーズン終了後には契約更新の時期を迎える。強化を担当する平尾さんは、選手に更新しない旨を伝える立場だった。悩む平尾さんからは度々電話があった。

「あいつはな、子どもが生まれたばかりやねん…。あいつはまだ、伸びる要素があるんやけどな…」

助言はしない。いつも上門さんは聞き役に徹した。

勝利への欲。それ以上にあったのが人情だった。用具の管理で神戸市内の練習場を訪れると、2人でピッチ際に立ちながら選手の動きを追った。いつも平尾さんの隣にいて、神戸製鋼の歩みとともにいる人だった。

【どん底の山中亮平救った言葉/平尾誠二の遺言1】はこちら>>

■天国へ掲げた優勝カップ

平尾さんの死から、2年後の2018年12月15日。東京・秩父宮ラグビー場に、願い続けた光景が広がった。トップリーグ決勝でサントリーに55-5で勝利。神戸製鋼が、遠ざかっていた日本一に立った。

歓喜のピッチで元ニュージーランド代表の名SOダン・カーターがさけんだ。

「ウエカドはどこだ!」

たった1人、上門さんはロッカー室でむせび泣いていた。超満員の観客席から響く歓声、見守り続けた選手、スタッフの喜びの声が、かすかに聞こえていた。

神戸製鋼の浮き沈みを、全て見てきた。抱き合う首脳陣の現役時代も知っている。何より平尾さんの遺志を背負っていた。強く、愛される神戸製鋼を、また見るために力を注いできた。

探しに来たスタッフに手を引かれ、ピッチに出た。復活を願い続け、立ち上がって喜ぶファンの姿が、涙でにじんで見えた。天国に旅立った平尾さんに届けるように、目を赤く腫らした上門さんが優勝カップを掲げた。

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それから5カ月後-。胃がんの闘病生活を送ることとなっていた。上門さんの性格や心境を察して、家族は1年半という余命を伝えなかった。

大分まで足を運んで2019年W杯を観戦し、家族で淡路島へ旅行に行った。

まだ5年、10年と。本人は生きると思っていた。ラグビーを愛し、亡くなる3カ月ほど前まで現場に足を運んだ。

今季、神戸製鋼の主将を2015年W杯日本代表SH日和佐篤(34)が務めた。上門さんには報徳学園時代から世話になってきた。

3月初旬のチームミーティングで、上門さんの死を知った。家族ら限られた人以外に病状を知らせることなく、仕事を続けていた。

「最後まで周りにすごく気を使ってはった。『兄さんらしいな』と思いました。優勝して、兄さんに、恩返しをしたいです」

ラグビー界は、2022年1月に新リーグ開幕を予定する。最後のトップリーグで優勝を目指した今季、幕切れは突然だった。

5月9日、静岡スタジアム。準々決勝でクボタに21-23で屈した。わずか2点の壁に跳ね返された。背中内側に喪章をつけていた。支えられてきた選手の思いを、日和佐は代弁した。

「兄さんは、すごくラグビーが好きな人でした。誰に対しても平等に接し、一生懸命関わってくれました。神戸製鋼の主将に決まった時も『頼むで、あっちゃん』と言ってくれました」

上門さんの人生は、神戸製鋼と共にあった。弱い時も、強い時も。平尾さんの遺志を胸に、チームの復活を願った人だった。【松本航】

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