27回目の出場で初の決勝に進んだ国学院栃木は、東海大大阪仰星(大阪第2)に5-36で敗れた。

就任34年目で初優勝を目指した吉岡肇監督は準優勝に終わり、涙を見せながらうつむく部員たちに、「下を向く必要はない。胸を張って栃木に帰ろう」と呼びかけた。

吉岡監督が指導者を志した原点は、国学院久我山高3年時の苦い経験だ。59回大会(1974年度)に出場し、決勝戦で目黒(現目黒学院)にあと1歩のところで敗れた。「銀メダルに終わった悔しさが、ずっとあった。あの時『金』を取れていれば、こんなに長くラグビーと関わることはなかったかもしれない」と振り返る。

リコー(現ブラックラムズ東京)で2年プレーした後、日体大に進学。卒業後に東工大で助手をしていた際、高校時代の恩師から「一からラグビー部の監督をしてみないか」と紹介され、国学院栃木に88年に赴任した。ただ、当初は部ではなく、愛好会。部費は年間で1万5000円。ボールさえも買えなかった。

専用グラウンドはなく、「盆踊りでしか使わない場所」という隣町の工場の空き地を借りた。部室はなく雑木林の中で蚊に刺されながら着替え、自家用車のハイビームが届く範囲で練習に打ち込むんだ。そんな苦労は今では笑い話。「話が全然違うじゃないかと思いましたけど、逆にゼロから全てやることが楽しかった」と懐かしむ。

初心者ばかりで10人に満たないチームだったが、監督就任2年目には全国高校ラグビー県予選決勝に進んだ。そんな成果もあって異例の早さで部に昇格した。

次第に県内外からラグビーをしたいと学生たちが集まるようになると、銀行から借りて自費で寮を作った。19年W杯日本代表SO田村優(横浜キヤノンイーグルス)も寝食を共にした1人だ。親元を離れてまでラグビーに3年間をささげる部員たちの思いに応えたい一心だった。

選手のスカウトは一切しないが、県内外から強豪校でラグビーがしたいと毎年多くの学生が門をたたく。今では経験者も増え、1~3年生で約90人近い部員がしのぎを削る。

主将の白石和輝(3年)を中心にまとまった「コクトチフィフティーン」に吉岡監督は「花園に来てから1試合、1試合重ねて本当に成長した。トロフィーをもらった時に選手たちはすげぇーことをしたと実感しました」。自身の高校時代と同じく花園の舞台で銀メダルに終わったが、決して悲しむことはない。「『銀』仲間になるから、後で握手しないと」と言って、誇らしげに笑った。【平山連】

◆吉岡肇(よしおか・はじめ)1961(昭36)年9月25日、東京都世田谷区出身。全国高校ラグビーの大阪工大(現・常翔学園)対国学院久我山戦を中学2年の時にテレビ観戦した際、「電撃が走ったような衝撃があった」と競技にのめりこむ。国学院久我山、リコー、日体大でWTBとしてプレー。88年に国学院栃木高に赴任し、ラグビー愛好会(現ラグビー部)の監督となる。