キングが逝った。サッカー史上最高の選手、ペレ(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)29日、多臓器不全のためサンパウロの病院で死去した。82歳だった。16歳でブラジル代表にデビューし、エースとして3度W杯に優勝。1956年にプロデビューして77年に引退するまで、公式戦1363試合出場1281得点という大記録を残した。世界のサッカー界、いやスポーツ界に多大な影響を残した不世出のストライカーが、天国へと旅立った。

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世界中が悲しみに包まれた。あのペレ、史上最高のスポーツ選手が逝った。16歳でのW杯デビュー、3回の優勝、サントスを世界的なクラブに押し上げ、創設されたばかりの北米リーグでもプレーした。引退後は実業家に転身。ブラジルのスポーツ大臣を務め、映画にも出演するなど幅広い活動で影響を与え続けた。

身長173センチと、決して大きくはなかったが、抜群の身体能力で大きなDFに打ち勝った。巧みなドリブルと驚異的なジャンプ力を生かしたヘディング、自ら得点するだけではなく中盤に下がってパスも供給。すべてのサッカースキルを持った背番号「10」だった。

決して裕福な家庭ではなく、少年時代は靴磨きなどで家計を助けた。16歳でサントスと契約し、自らの足だけでスーパースターへの階段を駆け上がった。世界中の子どもを大切にし、人々に「愛」を訴えた。私生活では3度の結婚。最後まで元気なところをみせた。

日本のサッカー界にとっても大きな存在だった。72年にサントスのエースとして初来日。国立競技場で日本代表と対戦した。77年には北米リーグのニューヨークコスモスを率いて国立で引退試合。さらに、84年には釜本邦茂引退試合に「助っ人」として参加した。

海外サッカーの情報がほとんどなかった時代でも、日本のサッカーファンはペレに憧れた。華麗なトラップからのシュートだけでなく「Pele」のサインまでまねた。日本協会元会長の長沼健氏(故人)は「ペレのおかげで救われた」と話した。特に77年の引退試合は国立を超満員にし、莫大(ばくだい)な利益をもたらした。1試合で、資金繰りに行き詰まった協会を救った。

親日家のペレは、引退後も度々日本を訪れた。93年のJリーグ開幕戦は、長沼副会長(当時)の隣席で観戦。日本サッカーの新たな船出を涙を流して喜び、川淵三郎チェアマンと抱き合ったという。日本のサッカー界にとっても、なくてはならない存在だった。

国際サッカー連盟(FIFA)による「20世紀最優秀選手」の1位にマラドーナとともに選ばれただけでなく、国際オリンピック委員会(IOC)の「20世紀最優秀選手」でも他の競技のスーパースターを抑えて1位になった。サッカーだけでなく、すべてのスポーツを通じたNO1。「キング」の死で、1つの時代が終わった。

 

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