日本プロボウリング協会は7日、元プロボウラーの中山律子さんが死去したと発表した。84歳。ここ数年は病気で療養していた。

中山さんは1969年に女子プロ第1期生としてデビュー。70年にはテレ生中継で女子プロ初のパーフェクトゲームを達成し、71年には「さわやか律子さん」のテレビCMで全国的な人気を博すなど、日本に一大ボウリングブームを巻き起こした。

日刊スポーツではかつて「連載この道 500人の証言」と題して中山律子さんを特集していた。95年5月24~28日に掲載した連載を再掲します。(年齢、肩書きは当時のまま。敬称略)

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「3万円の宝くじ」と揶揄(やゆ)された。最初の女子プロテストは69年(昭44)に行われ、45人が受験して合格13人。トップ須田、2位中山の順だった。わずか2年後の3期生テストには284人が押し掛けた。半数が初日の基準175に達せず、結局18人しか合格しなかった。合格率6・3%、確かに受験料3万円は、「最も手軽にスターになれる道」に夢を見た主婦やOLの宝くじだった。

証言391 創世期のボウリング担当記者、細谷正勝氏(50=朝日日刊スポーツ印刷社総務部長)「女子プロの全体的なレベルは低かった。プロ意識もあいまいで、スコアが悪くても美人だとスターになれた。しかし、須田、中山に並木が追い付いて勝ち始めると、トップのレベルは一気に上がり、日米対抗をやってもいい勝負をした。日本の女子プロスポーツ史の黒船的だった」。

須田開代子は、プロ入り前に全米オールスターズで準優勝した。キャリアも長く、記憶力と暗算が抜群だった。予選からの相手のスコアをすべて暗記し、ピン差でせり落とすことができた。中山は対照的に、ここ一番に強かった。

証言392 日本プロボウリング協会、大久保洪基専務理事(51)「中山は長嶋茂雄のような天性のスター、須田は知名度のある実力派、石井利枝は白鳥と呼ばれたサウスポーだった。3人を“悪役”並木恵美子が引き立てて、競技性を高めた。それぞれ交互に主役になり、わき役にもなった。だから面白かった」。

67年(昭42)からのミニスカート・ブームに、ちょうど乗った。女性の社会進出の波にも乗った。

証言393 石井利枝さん(47=ダイワボウル)「アマチュア時代はスラックスでプレーしても何も言われませんでしたが、プロではヒザ上10センチと決められました」。

女子プロボウラーの姿は、「時代の価値観」の反映でもあった。塩月弥栄子さん(77=茶道家)から礼儀作法の指導も受けた。そういう手順を経て初めて世間が納得する側面がまだ残っていた。

証言394 塩月さん「テレビの解説者として、女子プロと旅しました。急激にスターにさせられて、彼女たちはまだ戸惑っていましたから、少しマナーについてお話ししたこともあります」。

雨で中止の心配がない上、人気選手が出れば視聴率は確保できた。全盛期の72年(昭47)には週14本のボウリング番組があった。売れっ子プロの映像が、同時に2局から流れることも多かった。

証言395 並木恵美子さん(46)「試合で負ければ悔しかったが、その表情と日常の人間性をゴッチャに報道されたのはもっと悲しかった。女の意地、などと表現もいつも決まっていて(笑い)。本当は、須田さん、中山さんはいつも私の手本だった。特に71年(昭46)の中山さんが出した世界記録3ゲーム824点は、最大の快挙。私は目標があって幸運だった」。

並木が男女を通して初大台突破、年間賞金1008万4000円を獲得したのは71年(昭46)度、同年の女子プロゴルファー樋口久子は229万円だった。

証言 大久保氏「ボウリング場には灰皿もコーラもあって、日本のスポーツ観では異端児だった。逆にその米国直輸入的な雰囲気が、時代にはマッチした。ガッツポーズを始めたのも(男子)ボウリングで、その自由さをゴルフの杉本英世さんがうらやましがっていた」。

女子のブームが男子の「土台」を乗っ取る形で花開いたのも、ある意味では時代の流れの「風見鶏(かざみどり)」だった。【特別取材班】

◆ミニスカート・ブーム ミニスカートは59年(昭34)、イギリスのマリー・クワントによって創案された。日本では65年(昭40)にヒザ上10センチのミニスカートが発表され、婦人服業界で一気にシェアを伸ばした。

戦後のベビーブーマー世代が「自己解放の象徴としてミニスカートを着て街へ繰り出した」とも評され、69年(昭44)、佐藤栄作首相の寛子夫人が訪米した時、ヒザ上5センチのミニスカートを着用して話題になった。しかし、体形はまだ追い付かず、駅の階段やビルのエスカレーターを、スカートの後ろをハンドバッグで隠して上がる姿も多かった。おじぎも、浅く斜め前に首をかしげる新型あいさつが流行した。

◆中山律子(なかやま・りつこ)1942年(昭17)10月12日、群馬県草津生まれ。4歳の時、鹿児島へ。県立鹿児島女子高時代はバレーボール部。卒業後、会社員生活を経て、69年(昭44)の第1回女子プロボウリングテストに合格。70年(昭45)8月月例の女子プロ初の公認パーフェクトのほか、第1、5回全日本女子プロなど通算33勝(歴代4位)。70年代にはライバル須田開代子らと社会現象ともいえる大ブームを巻き起こした。04年日本プロボウリング協会会長。12年から同名誉会長。17年殿堂入り。

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