苦しい時こそ、上を向こう-。楽天梨田昌孝新監督(62)のダジャレには、さまざまなメッセージが込められていた。現役時代には唯一無二の「こんにゃく打法」を開発し、監督就任後は選手の長所を生かすチームづくりで近鉄と日本ハムをリーグ優勝へ導いた。オリジナル性あふれる手法で結果を出し続ける名将が、2年連続最下位の楽天を明るく立て直す。

 すっかり梨田監督の代名詞となった「ダジャレ」には、深い流儀が存在した。笑いによってコミュニケーションを円滑にし、鋭い感性を養い、最終的に強いチームを作り上げる…。

 「笑うと場が和むじゃない。そして1度笑わせると『次も何か来るんじゃないか』と思って準備をするでしょう。アンテナを張るよね。それが野球に生きる。例えば配球。自分とタイプの近いバッターに対して変化球が多いとか、インコースが多いとか。常にそういう準備をするようになる」

 ただ笑わせているのではない。タフなシーズンを戦い抜くために、自ら率先して笑顔を届けてきた。

 「負けた時に選手を暗くさせたくないんだよ。1年は長い。143試合の中でメリハリをつけて、気分転換をさせないと。昨日負けても、今日は新しいことをしようと。切り替えるためにはダジャレも笑顔も必要になってくる。この仕事は負けてもやらなくちゃいけない。途中で投げ出すことができないんだから」

 温かく、骨太な指導の流儀。その原点はコーチ、2軍監督を経て、初めて1軍の指揮を執った近鉄時代の4年間に培われた。

 「確か01年、オリックスの具台晟(ク・デソン)というピッチャーに完璧に抑えられた試合があった。1~2安打しか打てなくて、そりゃあ全員がしょぼんとしていたね。だから試合後のコーチ会議で言ったんだよ。『ぐうの音も出ないな。次はパーでも出すか。グーに勝つには』って。負ければ苦しいけど、引きずるのはもっと嫌い。その年は優勝したなあ」

 監督就任1年目の00年は「余裕がなかった」と振り返る。主力に故障者が続出し、結果は最下位。笑顔が消え低迷の中で気付いたことがあった。

 「あの時はダジャレのダの字も出なかったよ。今より15キロくらい痩せていて、本当につらかった。ただ、それも考え方次第でね。防御率は5点台だったけど、最終的には6点取れればいいのかなと思えたんだ。10失点なら11点取れば勝てるぞとか、選手には元気の出る言葉を言おうと決めた。『打て』って言っても打てないよ。それよりも『1球でも多く投げさせよう』とかね。厳しさだけじゃなく、優しさ、思いやりを持たなければいけない」

 テレビ番組「笑点」のファンであり、飛行機移動のお供はイヤホンで聴く落語。自分だけでなく、人を笑わせることを好む。苦しい時こそ、上を向いて戦おう-。日本ハム監督時代も、一貫した姿勢でチームを勇気づけてきた。

 「開幕から連敗した11年。すごく痛かったから、翌日に車で北海道神宮へ行ったんだよ。そしたら神社の方が『参拝(3敗)ですか?』って聞くから『いえ、2敗です』って返したの。僕の中で、ダジャレは『暗くならなくていいんだよ』って自分に言い聞かせる意味もある。つらい時、しんどい時でも逃げたらダメ。立ち向かうためには、下よりも上を向いて笑う方がよっぽどいい」

 柔軟な思考を持ち、選手の長所を引き出すことを最優先に考える。だからこそ地域、特徴も異なる2球団でリーグ優勝に輝けた。

 「近鉄の1年目に掲げたスローガンは機動力野球。だけど大失敗で最下位になって、さあ2年目。一番の特徴が何かと考えたら、やはり長打力だった。今度は盗塁がさっぱりなくなったけど、自分のチームに合った野球はこれだと信じていたから、気にしなかった。逆に日本ハムは守りのチーム。ダルビッシュをはじめとするいい投手がいて、球場も広かったから。チームが変われば選手も違って、ファンの気質も変わる。自分のやりたい野球を当てはめるのではなく、そこに合った野球をする。それが使命だと思っているよ」

 起用も柔軟で勝負師。近鉄時代の01年。開幕1週間前に、捕手の礒部を外野へとコンバートした。

 「このチームの選手をどう使うのが一番いいかと考えた時に、礒部の打力を生かそうと思った。時期が時期だけに、周りからは『負けが込んでからでいいのでは』と言われたよ。でも、それじゃあ遅いと思っていた。それくらい選手を、チーム全体を見ているという自負もあったからね」

 結果は「いてまえ打線」の5番打者として優勝に大きく貢献。そんな功績を残した名将が楽天にやって来た。どんなチームを作り上げるのだろうか。

 「今、考えているオーダーは1番岡島、2番銀次。3番が(松井)稼頭央で4番がアマダーになるのかな。ウィーラーは左翼で5番、今江が6番三塁。7、8、9番を二塁の藤田、嶋、遊撃の後藤と西田で。ただ、チーム方針は2月に全員を見極めてからだね。いつも言うのは、打者も投手も勝負してほしいということ。打たれるのは構わないけど、逃げ回るフォアボールはダメ。空振り三振はいいけど、見逃し三振はやめてほしい。逃げるピッチャーはすぐ代えるぞと、何人かには言ってある」

 近鉄を優勝に導いた01年も、2年連続最下位からの下克上だった。王者ソフトバンクにベストの投手をぶつけるプランを明かしたように、就任初年度から全力で頂点を目指していく。

 「楽天は1回日本一になっているから、2年連続の最下位は相当に悔しいはずなんだよね。選手のそういう気持ちに、うまく火を付けたいと思っているよ。僕のちょっとした優しさを加えてね(笑い)。楽天には近鉄時代の人間がたくさんいて、知らない場所に来た気がしない。バファローズの流れを継いでいる、縁のある球団。3球団も監督をやらせてもらい、非常に感謝している。ぜひとも優勝、日本一を目指したい」

 04年に消滅した近鉄最後の監督が、その系譜を継ぐ楽天の新監督として初のシーズンを迎える。真剣勝負の中に笑いを交えながら、梨田楽天の16年が幕を開ける。【取材・構成=松本岳志】

 ◆梨田昌孝(なしだ・まさたか)1953年(昭28)8月4日、島根県生まれ。浜田から71年ドラフト2位で近鉄入団。捕手で79年から5年連続パ・リーグ盗塁阻止率1位を誇った。88年引退。93年に作戦バッテリーコーチで近鉄復帰し、96年から2軍監督、00年に1軍監督。01年にリーグ優勝し、04年の球団消滅とともにユニホームを脱いだ。07年オフに日本ハム監督に就任。09年にリーグ優勝し11年限りで勇退。13年WBCでは日本代表の野手総合コーチを務めた。